2016年6月12日日曜日

説教集C2013年:2013年間第11主日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記下 12章7~10、13節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 2章16、19~21節
福音朗読 ルカによる福音書 7章36~8章3節

   本日の第一朗読は紀元前千年頃の話で、カナンの地の先住民ヘト人、すなわちヒッタイト人の出身者である家臣ウリヤの妻を奪って子を身ごもらせたダビデ王が、その姦通罪の発覚を恐れてウリヤを戦場で死なせたという、もっと酷い二重の罪を犯したことを、預言者ナタンが主の名によって厳しく咎めた話であります。預言者はこの叱責に続いて、ダビデ王の家族の中から反逆者が出てもっと恐ろしい罪を公然と犯すという、耐え難い程の天罰も王に予告しています。しかし、王がナタンに「私は主に罪を犯した」と告白し、悔悟の心を表明すると、本日の朗読箇所にもあるように、ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と、神からの赦しと慰めの言葉を告げます。現代の私たちにとっても、神からのこのような赦しと励ましの言葉は大切だと思います。
   御存じのように、数年前からカトリック司祭による子どもたちや若い女性たちへの性的虐待事件が、欧米の先進諸国でマスコミにより次々と明るみに出され、カトリック教会は大きく揺さぶられています。少なからぬ司祭たちが数カ月、数年もそんな犯罪を極秘に続けていたそうですから。一般社会の裁判所に訴えられ、被害者たちへの莫大な賠償金の支払いや多額の裁判費用などのため、赤字財政に悩んでいる教区もあると聞きます。神より聖なる司祭職に召されても、現代世界を深く汚染し続けている古いアダムの人間中心主義や利己的欲情に対しては、節制と清貧に励みつつ日々弛まず戦い続けないと、知らない裡に心の奥底まで汚染されて行きます。罪に陥った司祭たちは、自分に対するこの「心の戦い」をゆるがせにしていたのだと思います。そのような司祭が問題を起こしたような時は、上長はすぐに厳しい態度で問題の解決に努めなければならないと思います。大阪の池長大司教は、数年前に配下の70歳代前半の司祭がセクハラ事件を起こした時、すぐに厳しい態度を公然と表明して犠牲者に対する償いにも務め、裁判騒ぎになるのを阻止しました。この厳しい態度ですぐに悪と戦う姿勢は、現代のような時代には大切だと思います。
   私たちの人間性を歪めている、自己中心の利己的傾きは心の奥に深く隠れていて、自分の持って生まれた自然の力ではなかなか勝てません。しかしたとい倒れても、ダビデ王のように神の憐れみの御心にひたすら縋りつつ、罪を赦して下さる神の愛と力に生かされて生きようと努めるなら、晩年のダビデ王のように、憐れんで救う神の新たな働きを生き生きと体験するのではないでしょうか。「罪が増す所には、恵みがなお一層満ち溢れる」と聖書にあります。近年大きな罪を犯して教会の名誉を傷つけた元司祭たちが、神の憐れみに縋って改心と償いに励み、いつかはダビデ王のように幸せな老後を迎えるに至るよう、神の憐れみと恵みを願い求めましょう。あわせて、司祭たちのセクハラの犠牲になった人たちの上にも、神の恵みと助けを祈り求めたいと思います。私は30年ほど前にそのような事件を起こしてしまった日本人の司祭と、その相手の女性の更生のために深く係わったことがありますが、二人は結婚して二児の親となり、その子供たちが東京の下町で立派な小学生になっているのに会ったのを最後に、もうその家族と交際していません。しかし今頃は子供たちも皆それぞれ大きくなり、カトリック者として信仰の内に生活していると信じます。
   使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と書いていますが、ここで「信仰」とあるのは、ハバクク書2章やローマ書1章その他に「義人は信仰によって生きる」とある言葉なども総合して考えますと、ルッターが考えたように心でひたすら信奉することや、自力で神に縋ることではなく、もっと広く、神の新しい働きに従う実践的従順の信仰と考えてよいと思います。パウロはそれと対比して、「律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです」と述べていますが、この言葉の背後には、彼が若い時にキリストの教会を迫害したという、苦い体験があると思います。改心前の彼は、誰にも負けない程熱心に律法の全ての規定を、自力で自主的に順守しようとしていた律法学者だったと思います。しかし、復活なされた主キリスト御出現の恵みに出会い、その主から厳しく叱責された時、神と社会のためと思ってなしていた律法の厳守は、神の新しい救いの御業を妨げるものであったことを痛感させられました。
   彼はその時から、人間が自力で研究し順守する律法中心の立場や、自力で神の掟を守り神を崇めようとする熱心などは捨てて、ひたすら神の新しい働きや新しい導き中心の立場に転向し、その働きや導きに対する信仰と従順の感覚を鋭敏に磨き、復活なされた主キリストの御命に心の奥底から生かされる、新しい信仰実践に励むようになりました。本日の第二朗読に読まれる、「キリストが私の内に生きておられるのです。云々」の言葉は、この新しい信仰体験に根ざした述懐であると思います。私たちも使徒パウロの模範に見習い、他人に負けまいとして頑張る自力主義には死んで、まず心を空っぽの器となし、そこに主キリストの御命と聖霊を受け入れ、主キリストが新約の神の民から求めておられる、神の御旨に僕・婢としてひたすら従って行こうとする信仰実践を、しっかりと体得するよう心がけましょう。その過程で、弱さから幾度倒れても構いません。すぐに立ち上がって自力主義を捨て、神の御旨中心の愛の信仰実践に努めましょう。復活の主ご自身も本日の福音にあるように、幾度も「あなたの罪は赦された」とおっしゃって喜んで下さることでしょう。

   今年の11月末までを「信仰年」として、神から自分に与えられた信仰を実践的に深め実りあるものとすることに励んでいる私たちは、各人の自力ではなく、そういう神の救いの新しい働きかけを感知し、それに対する協力と従順を中心とした生き方を身に付けるよう心がけましょう。これからの終末的時代には、人間が自主的に産み出し造り上げようとする人間中心主義の業績は、神ご自身によって次々と崩され葬り去られるように思われるからです。