2014年6月1日日曜日

説教集A2011年:2011年主の昇天(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 1章1~11節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章17~23節
福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節
 
  本日の集会祈願文には、「全能の神よ、あなたは御独り子イエスを苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いて下さいました。主の昇天に、私たちの未来の姿が示されています」とあります。神は私たち人間を、ほんの百年間ばかりこの不安と苦しみの世に住まわせる為にお創りになったのではありません。神と共に永遠に幸せに生き、愛をもって万物を支配させる為に、ご自身に特別に似せてお創りになったのです。大きな明るい希望の内に、この感謝の祭儀を捧げましょう。しかし、昇天なされた主を、この世から遠く離れた存在と考えないように気を付けましょう。主はご昇天の直前に、「私は天と地の一切の権能を授かっている。云々」と話されたのです。天だけではなく、あの世からこの世の一切の被造物をも、新たな形で支配する存在となられたのです。本日の第二朗読にも、神は「全てのものをキリストの足元に従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体」なのですと説かれています。

  第一朗読の始めには、「テオフィロ様、私は先に第一巻を著して、云々」とありますが、この第一巻は同じくテオフィロ様に宛てて執筆されたルカ福音書を指しています。ルカ福音書のギリシャ語原文の序文には、このテオフィロ様の前にクラティステ(尊敬する、敬愛するという意味)の敬語が使われており、この敬語は地方総督や総督経験者など、高い社会的地位の人に宛てて執筆する時に使われていた敬語だそうですから、医師でもあった知識人ルカはそのような社会的権威者宛てに、その二つの著作を執筆したのです。福音書はその序文に明記しているように、「始めからよく調べ」よく整理して書き上げたと思われます。福音書の2章には、ベトレヘムの羊飼いたちの話の後で「マリアはこれらの事を悉く心に留めて思い巡らせていた」と書き、12歳のイエスの為した出来事の後でも、同様に書いていますので、ルカは聖母マリアから直接に聴いて主の御誕生や幼年期の話を書いたと思われます。従ってその福音書は、アウグストゥス皇帝の勅令によって最初の人口調査がユダヤで行われた紀元前7年にお生まれになった主が、紀元30年頃に受難死を遂げた後、せいぜい20年余りしか経っていない紀元50年代に執筆されたと思われます。紀元50年には、聖母は既に70歳を超えるお歳になっておられたでしょうから。ルカがその後で書いたという『使徒言行録』は、60年頃にローマに到着したパウロが自費で借りた家に2年間留まって、訪れて来る人たちに妨げを受けずに主キリストについて教え続けている、と記している所で終わっています。従って『使徒言行録』は、紀元62, 3年頃にテオフィロ様に宛てて認められたと思われます。

  紀元64719日には、ローマ市内14区の内3区を全焼し、7区を半焼する大火が発生しました。その時の皇帝ネロは、人を送ってその消火と焼けた町々の新しい復興に努めさせましたが、66年になって、その大火の時ローマの南50キロ程離れたアンツィオの美しい海辺の離宮に滞在していたネロ皇帝は、そのローマ大火を遠くから眺めながら「トロア滅亡の詩」を歌い、喜び楽しんでいたことが公になると、皇帝の宮殿やその周辺にある公共の建物が大きく建造されているのに、古くからあるローマの旧市街が道路も狭くごみごみしているのを新しく建て直すために、ネロが放火させたという噂が広まりました。この噂をもみ消すために、ネロはその放火罪を日頃ローマの支配に恨みを持っているユダヤ人過激派に帰して、ユダヤ人迫害を始めました。するとそのユダヤ人たちから、キリスト者放火説が出されました。彼らの言葉を信じたネロは、”Christiani non sint(キリスト者は存在してはならない)”という言葉を中心に据えた勅令を出して、キリスト者迫害を始めました。ローマ市内でのこの迫害は、6869日のネロの自殺によって終わりましたが、その前年に使徒ペトロもパウロもローマで殉教してしまいました。ルカがもし60年代の終り頃に『使徒言行録』を書いたとしたら、ペトロやパウロの殉教についても書いたと思われます。しかし、パウロのローマでの2年間の宣教活動で『使徒言行録』が終わっていることから考えますと、『使徒言行録』は60年代前半に書かれたと言わざるを得ません。これが、私がローマのグレゴリアナ大学で学んだ、イエズス会の教会史学者たちの一致した見解でした。

  ところが、第二ヴァチカン公会議がプロテスタントにも門戸を大きく開くと、聖書の様式史研究をして新約聖書の非神話化を唱えるブルトマンの聖書学が、一時的にカトリック教会内に流行し、マタイ2章に述べられている東方の博士たちの来朝は神話的物語で歴史的事実とは言い難いと言われたり、紀元70年のエルサレム滅亡についての主イエスの具体的預言を載せているルカ福音書は、エルサレムが滅亡した後の70年代になってから書かれたと思われる、などと言われたりしました。私が個人的に話し合ったその頃の日本人カトリック聖書学者も、アウグストゥス皇帝が発布した人口調査についての勅令の発布年などは少しも研究せずに、キリストは紀元前4年頃に生まれたなどと学生たちに教えていました。それで私は、上智大学のネメシェギ神父からの依頼もあって、1975年の学術誌『カトリック研究』第27号に、「ブルトマンの新約聖書非神話化に対する史学的見地からの疑問点」と題する論文を発表し、編集者もこの論文に異論のある方はどうぞその声を聞かせて下さいと添え書きしたのですが、何の反応もありませんでした。ちょうどその頃は、欧米の聖書学者たちの間でもブルトマンの学説に対する批判が強まっていたからだと思います。しかしわが国では、その頃まだ学生であった人たちがその後学者になっても、ルカ福音書はエルサレムが滅亡した後に書かれた、などという説を相変わらず踏襲しています。

  本日の福音の中で主は、「私は天と地の一切の権能を授かっている。だからあなた方は」「全ての民を私の弟子にしなさい」と命じておられます。「全ての民に教えなさい」と命じられたのではありません。全ての人が主イエスの弟子になるように、自分の見聞きした信仰体験について証言し、人々の心を神を信ずる方へと導けばよいのです。それはガリラヤ出身の無学な弟子たちにもできることですが、新約時代の宣教活動の本質はそこにあると思います。「洗礼」という言葉は、「沈める、浸す」という意味の動詞に由来していますから、主が本日の福音に命じておられる「父と子と聖霊の名の中に洗礼を授け」というお言葉は、受洗者が父と子と聖霊の水・命・力の中に沈められて、自己中心主義の古いアダムの生き方に死んで、三位一体の神の御旨中心の新しい「我」となって生き始めることを意味していると思います。古来洗礼の秘跡が「生と死の秘跡」と言われているのは、そのためだと思われます。私たちは皆その洗礼の秘跡を受け、毎年聖土曜日の復活祭儀の時に、その洗礼の約束を神に更新し宣言していますが、日々の日常生活の中で果たして自己中心主義の古いアダムの生き方に死んでいるでしょうか。主が御昇天の直前におっしゃったお言葉に基づき、改めて私たちの洗礼の約束を振り返り、新たに致しましょう。私たちがそのように心掛ける限り、主は「世の終わりまで」いつも私たちと共にいて下さると信じます。