2014年6月15日日曜日

説教集A2011年:2011年三位一体の主日(藤沢の修道院で)



  私たちの信じている唯一神は、決してお独りだけの孤独な神ではなく、三位一体という共同体的愛の神であります。三方(さんかた)で唯一神であられるという現実は、この世の自然的物質世界での事物現象を合理的に理解し利用するために神から与えられている人間理性には、理解することも説明することもできないあの世の現実で深い神秘ですが、神は御自身に特別に似せてお創りになった人間たちに、その神秘なご自身を御子を介して啓示し、人間たちから信仰によって正しく知解され愛されることを望んでおられます。使徒ヨハネはその福音書の冒頭に、神の御ことばが人となって私たちの内に宿ったこと、そしてご自身を受け入れた者には神の子となる資格を与えたこと、こうして信仰により神から生まれた人たちが、神の恵みによりその栄光を見たことを証言しています。したがって、人間理性にとっては全く近づき得ない大きな神秘ですが、神からの啓示や神の御子の働きを信仰と愛をもって受け入れる人の心の奥には、神の霊が働いて超自然の現実を悟る愛のセンスや能力が目覚めて来て、数々の体験を通してゆっくりとその大きな神秘に分け入り、三位一体の神と共に生きる喜びを見出すに至るのだと思います。使徒ヨハネのように、私たちの心も、いつかは神の栄光を見るようになるのです。

  本日の第二朗読には、「兄弟たちよ、喜びなさい。完全な者になりなさい」「思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」などの勧めが読まれます。当時のコリントが様々な国の出身者が富を求めて集まって来ていた国際的商業都市であったことを考慮しますと、この勧めは、生まれも育ちも異なる人々が相互に心を開いて話し合ってみても、なかなか実現し難い生き方を意味していたと思われます。現代都市の個人主義化した住民たちと同様に、職場の違う隣近所の住民とは挨拶もせず、ただ利害を共にしている同業者や同国人、あるいは同じ教会の人たちとだけ共に生きている人が多かったのではないか、それに自然的には纏めようがない程に人々の考えも性格も多様化していたのではないか、と思われるからです。

  使徒パウロはそのキリスト者たちに、神中心に生きる主イエスにおいて喜ぶこと、完全な者になろうとすること、思いを一つにして平和を保とうとすることを勧めたのですが、ここで「完全な者」とあるのは、非の打ちどころがないようなこの世の道徳的人格者を意味してはいません。主も山上の説教の中で、善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせて下さる「天の父が完全であられるように」「完全な者になりなさい」と勧めておられますが、これも律法の掟を全て完全に守る人格者になることを意味してはいません。ここで言う「完全な者」とは、神の愛をもって誰にでも心を開いている人を意味していると思います。従って使徒パウロも、平和な喜びの内に隣近所の人にも、誰に対しても、心を開き思いを一つにして話し合える人になるようにと勧めているのだと思います。「そうすれば、愛と平和の神があなた方と共にいて下さいます」と続けているからです。全てが極度に多様化しつつある現代の国際的グローバル社会においても、もし皆が主イエスの精神と一致して生きようと心がけるなら、生まれも育ちも文化も異なる人たち同志が、心を一つにして愛し合い、平和に暮らすことは難しくありません。主イエスを介して、共同体的な三位一体の神が相異なる人々の心を、一つの霊的共同体に纏めて下さるからです。始めに申しましたように、私たちの信奉している唯一神は孤独な神ではなく、共同体的な愛の神、三方(さんかた)が一緒になって働いて下さる力強い愛の神なのですから。使徒パウロも最後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」と祈っています。

  本日の福音の中で使徒ヨハネは、「神はその独り子をお与えになった程、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と、神の御子・主イエスがこの世に派遣されて人となった目的について説明しています。三位一体の神が、「我々にかたどり、我々に似せて」とおっしゃって、私たち人間を創造なされたのは、ほんの百年間程この苦しみの世に生活させるためではありません。私たちは皆、神のように一つ共同体になって永遠に万物を支配し、永遠に幸せに生きるために創られたのです。私たちの本当の人生は、たちまち儚く過ぎ行くこの世にあるのではなく、永遠に続くあの世にあるのです。しかし、その本当の人生に辿り着くには、神がお遣わしになった御子イエス・キリストを信じ、「キリストの体」という一つ共同体の細胞のようにして戴かなければなりません。私たちは皆、三位一体の神に似せて、神の愛の共同体的存在になるよう神から創られているのです。天使的博士と言われた聖トマス・アクィヌスによると、純粋の霊である天使は、各位が夫々独自の種類・独自の霊的命ですが、人間は皆一つの種類で、一つの共同的命を人祖から受け継ぎ、それに参与して生きているのです。「自分」というのは、私が受け継いでいる私の担当部分のことで、それは私個人の所有物ではなく、ちょうど人体の一つの細胞のように、私はその自分を先祖のためにも子孫のためにも、神のためにも人類全体のためにも立派に生きて、皆の期待に応える使命を受け持っている一つの小さな部分なのです。このことを心にしっかりと銘記し、国や民族、文化、宗教などの相違を超えて全ての人を、特に社会の中で無視され勝ちな小さな人たち、苦しんでいる人たちを愛するように努めましょう。そのための広い大きな愛の恵みを三位一体の愛の神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。