2013年6月16日日曜日

説教集C年:2010年間第11主日(三ケ日)

朗読聖書:. サムエル下 12: 7~10, 13.  
        Ⅱ. ガラテヤ 2: 16, 19~21.
           Ⅲ. ルカ福音書 7: 36~50. 
 
    本日の第一朗読は紀元前千年頃の話で、カナンの地の先住民ヘト人の出身者である家臣ウリヤの妻を奪って子を身ごもらせたダビデ王が、その姦通罪の発覚を恐れてウリヤを戦場で死なせたという、もっと酷い二重の罪を犯したことを、預言者ナタンが主の名によって厳しく咎めた話であります。預言者はこの叱責に続いて、ダビデ王の家族の中から反逆者が出てもっと恐ろしい罪を公然と犯すという、耐え難い程の天罰も王に予告しています。しかし、王がナタンに「私は主に罪を犯した」と告白し、悔悟の心を表明すると、本日の朗読箇所にもあるように、ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と、神からの赦しと慰めの言葉を告げます。現代の私たちにとっても、神からのこのような赦しと励ましの言葉は大切だと思います。

    御存じのように、2年前に「パウロ年」が祝われていた頃から、カトリック司祭による子どもたちや若い女性たちへの性的虐待事件が、欧米の先進諸国でマスコミにより次々と明るみに出され、カトリック教会は大きく揺さぶられています。少なからぬ司祭たちが数カ月、数年もそんな犯罪を極秘に続けていたそうですから。一般社会の裁判所に訴えられ、被害者たちへの莫大な賠償金の支払いや多額の裁判費用などのため、赤字財政に悩んでいる教区もあると聞きます。引責辞任に追い込まれてしまった司教たちも少なくないようです。教会が厳しく糾弾された一番大きな理由は、問題を起こした教区司祭たちの上司である司教たちが、その犯罪を知らされても被害者たちの痛みに十分配慮せず、教会の社会的体面を守ることに腐心して、人事異動によって問題を闇に葬ろうとして来たことにあるようです。

    エフュソ書の2: 3に述べられているように、私たち人間は原罪により神の「怒りの子」として神に背を向け、神以外の被造物を自分のものとして自分中心に生きようとする、いわば神に対する忘恩と反逆の傾きをもって生れ付いています。神より聖なる司祭職に召されても、この古いアダムの精神は、心の奥底に根強く残っています。豊かさと便利さと強力なマスコミを武器にして、現代世界を深く汚染し続けているこの古いアダムの利己的精神に対しては、節制と清貧に励みつつ日々弛まず戦い続けないと、知らない裡に心の奥底まで汚染されて行きます。罪に陥った司祭たちは、自分に対するこの「心の戦い」をゆるがせにしていたのだと思います。そのような司祭が問題を起こしたような時は、上長はすぐに厳しい態度で問題の解決に努めなければならないと思います。2,3年前だったでしょうか、大阪の池長大司教は、配下の70歳代前半の司祭がセクハラ事件を起こした時、すぐに厳しい態度を公然と表明して犠牲者に対する償いにも務め、裁判騒ぎになるのを阻止しました。これは、それで良かったと思います。

    教会の歴史を細かく調べてみますと、このような事件は現代よりは遥かに少ないですが、しかし何時の時代にも多少は見られました。その殆ど全ての場合、司祭は責任を取って司祭職から離れていますが、司祭が厳しい償いを果たして司祭職に留まる許可を得た例も、例外的にあります。30年程前には、私の親しくしていた後輩の神言会司祭が、岐阜県でそのような問題を起こしたことがありました。管区長はすぐにその有能で実績の多い司祭をローマに派遣し、ゆっくりと反省し将来を考える期間を与えましたが、私は初め、彼が何のためにローマに行ったのか理由が分りませんでした。しかし、程なく日頃親しくしていた年配の女性信者の訪問を受け、その相手の若い女性が岐阜県を離れて東京で働き始めていることや、私の友人司祭との事件のことなどを聞きました。それですぐ上京してその女の人の言い分を聞き、それをその時の管区長に伝えましたら、二人の問題の解決に尽力してくれるよう依頼されました。それでその時からローマにいるその司祭と東京にいるその女性との、私を介しての文通を頻繁に繰り返しましたら、友人は間もなく自分から司祭職を去り、東京に就職してその女性と結婚し、今も幸せに暮らしています。私はその後も二度その家庭を訪問していますが、子供二人も立派に成長し、神は弱さから過ちに陥った友人をダビデのように、このようにして幸せにして下さったのだと思います。

    私たちの人間性を歪めている、自己中心の利己的傾きは心の奥に深く隠れていて、自分の持って生まれた自然の力ではなかなか勝てません。しかしたとえ倒れても、ダビデ王のように神の憐れみの御心にひたすら縋りつつ、罪を赦して下さる神の愛と力に生かされて生きようと努めるなら、晩年のダビデ王のように、憐れんで救う神の新たな働きを生き生きと体験するのではないでしょうか。「罪が増す所には、恵みがなお一層満ち溢れる」と聖書にあります。最近大きな罪を犯して教会の名誉を傷つけた元司祭たちが、神の憐れみに縋って改心と償いに励み、いつかはダビデ王のように幸せな老後を迎えるに至るよう、神の恵みと助けを願い求めましょう。

     使徒パウロは本日の第二朗読の中で「人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と書いていますが、ここで「信仰」とあるのは、ハバクク書2章やローマ書1章その他に「義人は信仰によって生きる」とある言葉なども総合して考えますと、ルッターが考えたように心でひたすら信奉することや、自力で神に縋ることではなく、もっと広く、神の新しい働きに従う実践的信仰と考えてよいと思います。パウロはそれと対比して、「律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです」と述べていますが、この言葉の背後には、彼が若い時にキリストの教会を迫害したという、苦い体験があると思います。改心前の彼は、誰にも負けない程熱心に律法の全ての規定を順守しようとしていた律法学者だったと思います。しかし、復活なされた主キリスト御出現の恵みに出会い、その主から厳しく叱責された時、神と社会のためと思ってなしていた律法の厳守は、神の新しい救いの御業を妨げるものであったことを痛感させられました。

     彼はその時から、人間が自力で研究し順守する律法中心の立場や、自力で神の掟を守り神を崇めようとする熱心は捨てて、ひたすら神の新しい働きや新しい導き中心の立場に転向し、その働きや導きに対する信仰と従順の感覚を鋭敏に磨き、復活なされたキリストの御命に心の内面から生かされる、新しい信仰実践に励むようになりました。「キリストが私の内に生きておられるのです。云々」の言葉は、この新しい信仰体験に根ざした述懐であると思います。私たちも使徒パウロの模範に見習い、他人に負けまいとして頑張る自力主義には死んで、主キリストが新約の神の民から求めておられる、神の御旨に僕・婢としてひたすら従って行こうとするこのような信仰実践を、しっかりと体得するよう心がけましょう。その過程で、弱さから幾度倒れても構いません。すぐに立ち上がって自力主義を捨て、神の御旨中心の愛の信仰実践に努めましょう。復活の主ご自身も本日の福音にあるように、幾度も「あなたの罪は赦された」とおっしゃって喜んで下さることでしょう。私たちは今日、各人の自力や能力主義ではなく、そういう神の救いの働きへの協力と従順中心の、奉仕的愛の信仰実践時代に生きているのですから。