2011年3月13日日曜日

説教集A年:2008年2月10日四旬節第1主日(三ケ日で) 

第1朗読 創世記 2章7~9節、3章1~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章12~19節
福音朗読 マタイによる福音書 4章1~11節
 
① 四旬節の日曜日の第一朗読は、いつも旧約時代の罪と救いの話から引用されますが、本日の第一朗読はその一番初めの、創世記2章と3章に読まれる人祖の創造と罪の話から引用されています。まず「主なる神は、土の塵で人を形造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と述べられています。これは、私たちの心にある宗教的真理を教えるために神から啓示された夢幻のような神話ですから、実際の現実世界に最初の人間が出現した時の状況とは大きく違っていると思います。しかし、この話によって神は私たち人間に、忘れてならない大切な真理を教えておられるのではないでしょうか。まず、人間は多種多様の物質世界の躍動の中で偶然に産まれ出たのではなく、神が直接にその全能の力を働かせて土の塵から形造られ、大きな愛をもってその鼻に命の息を吹き入れることにより生きる者になったということです。

② こうして優れた知的能力と自由とを持つ存在、万物の霊長として創られた人間が、もしその自由を悪用して神の御言葉に従わず、神に反抗する存在に堕落するなら、神の御心を深く傷つけ、土の塵に戻されることも覚悟しなければならないことを、この神話は教えているのではないでしょうか。第一朗読にはない続きの話を読みますと、幸い神は人間に苦しみを与えるだけで、その苦しみに耐えて生きつつ、将来神が派遣なさる一人の子孫によって救われる道を、この神話の中で啓示なさいました。神のこの大きな憐れみに信頼しましょう。

③ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、全人類の罪を背負ってご自身を十字架上のいけにえとして神にお献げになった主イエスの御功徳、その御恵みは、人祖アダムが神に対して犯した罪よりも遥かに大きなものであり、アダムの罪の穢れが全ての被造物に及び、死が全ての人を支配するようになったのなら、主イエスの功徳による罪の赦しや新しい命の恵みも、その罪の支配を打ち砕いて、全ての人の上に豊かに与えられることを示そうとしています。

④ 人祖アダムは、いわばこの世の土から造られた人間で、そこに神が天からの命の息、すなわち超自然の命の力と潤いを吹き入れることによって生きる者となった存在でしたが、アダムが神に背く罪によってその命の力と潤いを失ってしまうと、この世は荒れ野の大地のように乾き切って、労苦と死の世界になってしまった、と使徒パウロは考えていたのかも知れません。もちろん荒れ野といっても、本来豊かな実りをもたらす可能性を備えている土地として造られているですから、天からの雨に豊かに恵まれることがなくても、生きるための厳しい労苦から体験的に学ぶ人間の知恵の蓄積で、何とか生き抜く道は神の憐れみによって残されていたと思います。そこに万物の創造主、命の息の本源であられる全能の神の御子ご自身が人間となって出現し、人類の全ての罪科を背負って痛ましい受難死を遂げられた後、あらかじめ予告しておられた通りに三日目に、もはや死ぬことのない神の永遠の栄光の命に復活なされ、天から恵みの雨を豊かに降り注がせる道が開かれたのです。

⑤ 使徒パウロがここで、「一人の罪によりその一人を通して死が(この世に入り、)支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人(主イエス)」「一人の正しい行為によって、全ての人が義とされて命を得ることになったのです」と確信したのは、当然であると思われます。「一人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」という使徒の言葉を素直に受け止め、私たちも主イエスと内的に深く一致して多くの人の罪科を背負い、日々ご自分の身にふりかかる労苦を快く耐え忍びつつ、天の父に祈っておられた主の献身的愛の精神で生きるよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音の始めには、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」という言葉が読まれます。毎年四旬節の第一主日に読まれるこの「四十日間」が、教会が古来「主の復活祭」前に伝統的に順守している四旬節の原型であります。四旬節は単に断食する、あるいは節食する、あるいは貧しい人たちに応分の寄付をするという、教会側から年毎に推奨される外的実践に努めるだけの期間ではなく、何よりも主イエスと一致して、自分の心の中にも働く悪魔の誘いに戦う心を、実践的に鍛錬する期間なのではないでしょうか。節制によって自分の心を統御するのも、その手段の一つだと思います。教会から勧められている小斉や大斉も、その手段の一つです。外的手段の実行にだけ注目して、四旬節の内的目的を見失わないよう気をつけましょう。

⑦ 明日の2月11日は、1858年2月11日に聖母マリアがフランスのルルドにご出現になった150周年記念に当たります。ルルドで奇跡の泉を湧き出させて世界各国から来る無数の病人を癒したり、生きる希望を与えたりなさった聖母のその奇跡的お働きを記念して、2月11日はカトリック教会で「世界病者の日」とされていますが、現教皇は聖母ご出現の150周年を記念し、世界に向けてメッセージをお出しになりました。皆様も既にお読みになったでしょうが、教皇はその中で、今年の6月にカナダのケベックで開催される国際聖体大会にも言及し、聖母マリアの働きとキリストの聖体の秘跡とを関連させて解説しておられます。私たちもその教えに従い、聖体の秘跡の力に生かされ力づけられて、病者のための祈りや奉仕に努めるよう心がけましょう。

⑧ 現代のカトリック者の中には、病気の医学的側面についてしか考慮せず、そこにその人の宗教心も深く関与していることを認めていない人が多いようですが、これは主キリストがお示しになった実践や主の御言葉、そして使徒たちの模範や古い教会の伝統に反していると思います。主は積極的に非常に多くの病人を癒し、そして病人を癒す権能と使命とを与えてそのお弟子たちを派遣しておられます。病苦や死が始まったのは人間が神に背を向ける罪を犯したからで、神よりの招きやメッセージを受け入れ、それに従おうとするなら、神はその人の罪を赦し病気を癒す大きな愛の持ち主であることを実証し、多くの人を神の国へと招き入れるためであったと思われます。それで使徒ヤコブはその書簡に、「病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは病人を救い、主がその人を起き上がらせて下さいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦して下さいます」などと書いています。これは、多くの病人を世話したり癒したりした体験に基づく言葉であると思います。体の病気は、その人の信仰心とも深く関連しているのです。そこに、病人のための宗教者の使命もあります。聖母は150年前に、そのことを私たちに悟らせるためルルドにご出現になったのではないでしょうか。

⑨ 私は、1970年代から南山大学の信者の元教授や職員、あるいはその家族など、多くの重病人を見舞って次々とあの世に見送って来ましたが、度々病油の秘跡を授けていますと、病気を癒すことはできなくても、病状を好転させることがありましたし、少なくとも病苦を素直な信仰心で受け止め、主のご受難に内的に参与して忍耐強く耐え忍ぶ力を与えているように思うことが、幾度もございました。信徒であっても、信仰をもって病者のために祈るなら、医学では与えることのできない心の力を神から呼び下し、その病者を慰め力づけることができると信じます。私たちには、その使命もあるのではないでしょうか。