2011年1月30日日曜日

説教集A年:2008年2月3日年間第4主日(三ケ日で)

第1朗読 ゼファニヤ書 2章3、3章12~13節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 1章26~31節
福音朗読 マタイによる福音書 5章1~12a節
 
① 本日の第一朗読のゼファニヤ預言者は、敬虔なヒゼキヤ王の血を引く貴族出身者であったようですが、紀元前7世紀のヨシア王の時代に「主の日」、すなわち恐ろしい主の怒りの日の到来について預言しています。その予言書1章の始めには、「私は地の面からすべてのものを一掃する」という主のお言葉があり、続いてさまざまな生き物や人々に対する容赦なしの恐ろしい天罰が、具体的に描かれています。近年キリスト教会内には、聖書に予言されているこういう恐ろしい「主の日」を古い時代の単なる思想として片付け、現代社会に適合した信仰倫理だけに注目する傾向が強いようですが、しかし、神による厳しい裁きと「主の日」の到来に対する信仰は、私たちの信仰生活の一つの大切な基盤であり、神に対する畏れや神から離れる危険性を軽視する人は、この世の罪深い流れに無意識のうちに巻き込まれて行くと思います。

② しかし、私たちの神は罪の穢れを忌み嫌って、穢れているものを全て滅ぼそうとしているだけの神ではありません。何よりも私たちを愛し、その穢れた流れから救い出そうとしておられる愛の神であります。ですから恐ろしい「主の日」について警告しているゼファニヤの預言の中には、本日の第一朗読にあるように、私たちに救いの希望を与えて、慰め励ます言葉も読まれます。使徒パウロは、テモテ前書の1章に自分の過去の罪について告白していますが、「しかし私は、これらの事を信仰がなかった時、無知のためになしたのだから、憐みをこうむった」「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さったのだ」などと述べています。私たちも使徒のこの模範に倣って、この世の罪故に神から自分に与えられる困難や苦しみを逃げようとせず、主キリストの助けに縋りつつ、静かにその苦しみに耐えるよう努めましょう。そうすれば恐れることはありません。ゼファニヤの預言にあるように、私たちは主の怒りの日に身を守られて、「イスラエルの残りの者」の群れに加えられ、神に養われて憩いを見出すことでしょう。

③ 本日の第二朗読の中で、使徒パウロは「神は知恵ある者に恥をかかせるために世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために世の無力な者を選ばれました」と述べています。この言葉を誤解しないよう気をつけましょう。神の選びを受けて人の何倍も逞しく働いていたパウロは、人間的には決して無学で無力な者ではありませんでした。しかし、自分の学識や強靭さなどを誇ったり人々に見せつけたりはせず、ひたすら自分の弱さや「無であること」に心の眼を向けつつ、その弱さの中にこそ現存して下さる復活なされた主キリストの全能の力に縋って、主キリストの救う働きを身をもって証しようと心がけていたのだと思います。それが彼のいう「無学な者」「無力な者」の生き方だと思います。私たちも神に愛され選ばれるために、自分の理知的な考えや力に頼ることなく、何よりも神の御摂理に心の眼を向け、主キリストの助けを願い求めつつ生きるように努めましょう。

④ 本日の福音は、「山上の垂訓」とも言われている話の冒頭に主が掲げた箇条書きの信条のような話ですが、十戒を基本にした旧約の神の民の倫理とは違う、「新しい神の民の憲法」と称してもよいと思います。世界中のどの民族の宗教にも、成文化されているいないに拘わらず、他の人に迷惑をかけないための一定の法規のようなものがありますが、主がここで話された神の民の倫理は、それらのどこにも見られない全く新しいものですから、この神の民になるためには、どの民族の出身者にも、倫理の考え方や心の根本的変革が神から求められていると思います。実は仏教にも、「山上の説法」と呼ばれているものがあります。釈尊が象頭山(ぞうずせん)上から村や町を見下ろしながら語られた話を、後世の人たちがそう称したのですが、これも何かの画一的法規のようなものについての話ではありません。釈尊は、「比丘(びく)たちよ、全ては燃えている。熾念(しねん)として燃えさかっている」という言葉で始って、この世の人々の耳も鼻も舌も、体も心も、貪りや怒りや愚痴などの炎で燃えていることを強調した後に、その煩悩の炎を消し尽した処に、涅槃(ねはん:ニルバーナ)の境地が実現することを説いています。自然の目には見えない心の現実についてのこの話も貴重ですが、しかし、主の山上の垂訓はそれとも大きく違って、何よりも神を起点として、自分の生き方を考え直すことを説いています。

⑤ 各人は、この世の社会や一緒に生活している人間にだけ焦点を合わせて、自分の生き方を考えるのではなく、何よりも宇宙の創り主であられる愛の神とその御旨に心の眼を向けて、その神の御前に貧しく柔和に、清く正しく忍耐強く生きようと心掛けるべきことが説かれているのです。また隣人に対しても、憐れみ深く、平和を実現する人であるよう求められていますが、これは、他の個所での主のお言葉を参照すると、どんなに欠点多い隣人の内にも隠れて現存しておられる神の人・主イエスに対する愛と信仰なしには、完全には実行し難いと思われます。

⑥ いずれも私たちがもって生まれた自然の力では、難し過ぎる生き方です。そこで主は、私たちがその生き方を、神の超自然の力に参与して実践することができるよう、洗礼や聖体などの秘跡をお定めになり、私たちにお与えになりました。私たちは皆それらの秘跡の恵みを受けていますが、果たして主がここで求めておられるような生き方をしているでしょうか。単に外的に秘跡を受けるだけでは足りません。先程も申しましたように、もっと神への畏れと神の現存に対する愛と信仰をもって謙虚に受ける必要があると思います。その時、神の超自然の恵みが私たちの内に深く根を下ろし、生き生きと働いて下さるのではないでしょうか。そのための照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。