2011年1月2日日曜日

説教集A年:2008年1月6日主の公現(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 60章1~6節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節
福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節

① 本日の第一朗読は、第三イザヤがバビロンから帰国した神の民を励まし力づけるために、遠い将来に対する明るい展望を予見して、当時のユダヤの人々が連想し易いイメージを象徴的に用いながら、預言したものであると思います。したがって、この世の歴史的現実においてはその言葉通りの出来事が起こらなかったとしても、それに躓く必要はありません。メシアの来臨によって無数の異邦人をも加えるに至った神の民の世界的広まりと発展は、それらのイメージによって象徴的に語られた将来展望を、ある意味で確かに実現していますから。

② ここでイザヤが「ミディアン」と言っているのは、最古のらくだ遊牧民として知られる北西アラビア地方の部族を指していますが、「エファ」とあるのは不明です。イスラエルと接触のあった、同じ地方の部族かも知れません。「シェバ」とあるのは、「シェバの女王」で有名な、アラビア南部の民族を指していると思います。それから答唱詩篇に登場する「タルシス」は、当時フェニキアの商船が行き来していた今のスペイン南部の地方を指しており、「シバ」は今話したアラビア半島南端に近い「シェバ」の地を、「セバ」は紅海をはさんでその対岸の少し南の地方に住んでいたエチオピアの一民族の地を指しています。ソロモン王がフェニキア人に頼んで10隻建造してもらった大きな商船は、紅海を経てアフリカの東海岸の産物を輸入する途中で、シバにもセバにも立ち寄ってエルサレムを一層豊かにしていたでしょうから、これらの地名は詩篇72を介して、当時のユダヤ人たちに、過去の豊かな繁栄時代の記憶と結ばれてなじみ深いものとなっていたと思われます。ソロモン王はアカバ湾北西の地帯で鉄と銅の大きな鉱脈を発見し、古代オリエントで最大の製錬能力を持つ溶鉱炉を活用して、巨万の富を築いた王でした。

③ 本日の第二朗読には、神の「秘められた計画が啓示によって私に知らされました」という言葉が読まれます。この計画というのは、神の霊に照らされ導かれている知性によってのみ悟ることのできる神秘な奥義であって、理知的な人間理性では知り得ない神のご計画であります。ですから使徒パウロは「秘められた計画が啓示によって私に知らされました」と書いたのです。キリスト教の信仰は、根本的に神から啓示されたこのご計画に従うこと、しかも自ら進んで神の僕・婢となり謙虚に従いながら生きることであり、人間が聖書から学び取った合理的真理に従って生きることではありません。

④ 中世の偉大な神学者聖トマス・アクィヌスは、真理を理解する人間の能力をintellectus(知性)とratio(理性)との二つに分けて、知性を心で全体的に直観し悟る能力、理性を理知的推理考察を手段として理解する能力と説明しています。理性はこの世の経験的事物現象を観察し、その背後にある真理や原理を発見したり理解し説明したりする理知的能力で、この世で生活するのに役立つ各種の知識や技術を習得・練磨するのにも必要な能力であります。人類の近代文明は人間のこの理知的能力によって大いに発展し、豊かな文明世界を世界中に広めました。

⑤ しかし、人間が見聞きするこの世の経験に基づいて自主的に考える理性は、神よりの啓示に基づいて心で実践的に悟ることや、神の霊の導きを直観的に悟り、それに従って行く心の宗教的悟りには向いておらず、そのためには知性というもう一つの優れた能力が心に与えられているというのが、聖トマス・アクィヌスの思想だと思います。理性は「頭の能力」ですが、知性は神から心の奥底に与えられている宗教的な愛と芸術的なセンスに根ざしている、どちらかと言うと「心の能力」と言ってよいと思います。聖トマスはこの立場から信仰と知性とのバランスよい協働を唱道していますが、14世紀頃から神のご計画や神の啓示よりも、人間のこの世の体験や生活を中心にして自主的に考えようとする、人間中心のいわゆる人文主義思潮が広まり始め、16世紀には教会の組織や教理も聖書に基づいてもっと合理的に改革しようとする宗教改革が大きな流れになったり、17世紀には、「我思う。故に我あり」の、自分個人を中心にして全てを合理的に見直し考え直そうとしたデカルトを初めとして、人間中心の新しい近代思想が広まり始めました。すると、英語などでもintellect(知性)とreason(理性)とが同じ意味で使われるようになり、神から人間に与えられている二つの対照的に異なる能力の違いが、多くの人には分からなくなってしまいました。この人文主義的近世思想やその後の啓蒙主義思想の影響を、現代人も受け継いでいます。したがって、現代人が聖書が求めている神の僕・婢としての徹底的従順心に根ざした実り豊な信仰生活を営むには、全てを合理的に理解し企画することを中心とする生き方から脱皮して、まず心の奥底の知性的能力をあの世の神に向けて目覚めさせ、神の働きや神の現存を感謝の心で感知し、受け止めることから始めなければならないように思います。現代文明の混沌とした流れの中で道を模索して悩んでいる多くの人たちのために、神の照らしと導きを願い求めながら、本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。

⑥ 本日の福音の中心をなしているのは、確か2年前にも申したように、ヘロデ王でも東方の博士たちでもありません。この世にお生まれになった神の子メシアです。このメシアの来臨が、ヘロデ王のようなこの世の富や権力の獲得保持を第一にして生きている人間の心に、深刻な不安を与えるのです。その支配下にあって旨い汁を吸いながら生きていたユダヤ教指導者たちは、ヘロデ王の怒りや嫌疑を買わないよう、生まれたばかりのメシアには無関心を装います。しかし、そういうこの世の流れから自由になってひたすら人類の救い主を待望し、メシア中心に生きようとしていた人たちは、東方の博士たちのように、あるいはマリアとヨゼフ、ベトレヘム周辺の羊飼いたちのように、幼子のメシアに会って心が大きな喜びに満たされ、恵みのうちに高められて行きます。しかし本日の福音は、そのような信仰に生きる人たちに、ヘロデ王のような人たちからの恐ろしい迫害がなされることもあることを教えています。神の導きに対する知性的信仰感覚を磨いていましょう。そうすれば、東方の博士たちやヨゼフのように、神が護り導いて下さいます。