2011年1月16日日曜日

説教集A年:2008年1月20日年間第2主日(三ケ日で) 

第1朗読 イザヤ書 49章3、5~6節
第2朗読 コリントの信徒への手紙 1 1章1~3節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章29~34節

① 本日の第一朗読は、先日話したイザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の第二の歌の一部です。本日の朗読箇所の少し前の1節には、「主は母の胎にある私を呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた」とあって、主の僕は母の胎内にいた時から、神からの選び・召し出しを受けていたことを示しています。3節にはただ今朗読されたように、「あなたは私の僕イスラエル、あなたによって私の輝きは現れる」と神が話しておられますが、この「イスラエル」は、救いの恵みを受ける神の民イスラエルを代表し、象徴的に示している個人、人間イエスを指していると考えてよいと思います。「主の御目に私は重んじられている。私の神こそ、私の力」という言葉は、そのイエスの言葉と理解してよいと思います。

② 神の僕イエスは、神が「ヤコブ(の諸部族)を御もとに立ち帰らせ、イスラエル(の民)を集めるために、母の胎にあった私を御自分の僕として形づくられた」ことをはっきりと自覚しています。そして神の僕の使命について、神から告げられた言葉を伝えています。「私はあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまでもたらす者とする」という言葉です。第二イザヤを介して語られたこの預言の数百年後に、この世にお生まれになった人間イエスは、天の御父より与えられたこの使命を片時も忘れずに、救い主・メシアとしてのその御業をお始めになったと思われます。

③ その御業は、メシアの受難死によって挫折したのではありません。むしろその受難死と復活によって、あの世の永遠界と一層密接に結ばれた新しい段階、新しい次元へと大きく発展し、全世界の全ての民族に救いの恵みを豊かにもたらすものとなり、今なお続いているのです。主イエスがお与えになる超自然的救いの恵みを、全人類の中の一部の人間集団でしかないカトリック教会内だけにあるもの、と考えてはなりません。主イエスが創立なされて主の御教えを広めさせ、ミサ聖祭やその他の秘跡を行わせておられるキリストの教会は確かに豊かに救いの恵みを受けていますが、しかし主は、その教会の働きや祈りを介して、全人類に救いの恵みを注いでおられるのです。全てを何か不動の原則に従って合理的に考えようとする人間理性を退け、慈しみ深い神の愛の御旨に従うことを中心にする立場で考えるように致しましょう。メシアは、確かに「国々の光」となり、神の救いを「地の果てまでもたらす者」となっておられる、と思います。

④ 本日のミサの答唱詩編には、「神よ、あなたの不思議な業は数えきれず、そのはからいは類なく、私がそれを告げ知らせても、全てを語り尽くすことはできない」という詩編40番の言葉がありましたが、実際神の創造の御業も救いの御業も数多くの神秘に満ちていると思います。その神秘を感謝と驚きのうちに素直に受け止め、そこに人間中心の理知的説明などを持ち込まないよう気をつけましょう。

⑤ 本日の第二朗読はコリント前書冒頭の挨拶文ですが、その中にある「至る所で私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」という言葉に注目致しましょう。使徒パウロはこの言葉で、コリントにいる信徒団だけではなく、同時に世界各地の至る所でキリストによる救いの恵みを受けているすべての人を思い浮かべていると思います。その上で「イエス・キリストは、この人たちと私たちの主であります。私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にありますように」と、その挨拶文を結んでいるのだと思います。

⑥ 教会がこの挨拶文を本日の朗読聖書として採用したのは、召されて聖なる者とされ、キリストの恵みにあずかっている全世界の全ての人は、主イエス・キリストにおいて皆一つの民、一つの体にされているという、規模の大きな喜ばしい聖書の教えに従い、神の民全体と内的に結ばれて生活させるためであると思います。忽ち過ぎ去る目前の小さな現実、自分個人の成功・失敗、あるいは喜び・苦しみだけではなく、神の御前ではそれらが主において他の人たちの救いや成功・失敗、あるいは喜び・苦しみとも内的に関連していることを、見逃さないように心がけましょう。キリスト教一致祈祷週間にあたって、全てのキリスト教各派が個々の教派の枠を超えて、広い大らかな心で相互の幸せのために祈り、苦しみを献げる精神を広まるためにも尽力しましょう。

⑦ 福者マザー・テレサは、こんな話をなさったことがあります。「病気の人や体の不自由な人は、……自分の苦しみを捧げながら、(私と)完全なつながりをもって貢献しているのです。二人はまるで一人となり、お互いをもう一人の私と呼び合います。この前に訪れた時、そのもう一人の私は私に言いました。『あなたはこれから歩き回り、働き、人々に語り、ますます大変な時を迎えようとしているのが分かります。私の背骨の痛みが、そのことを語っています』と。彼女はその時、17回目の手術の直前でした。私が何か特別なことを実行する時はいつも、彼女が私の影となり、そのことを成し遂げる力と勇気の全てを、私に与えてくれるのです」という話です。

⑧ 使徒パウロもコリント後書1章に、「キリストの苦しみが満ち溢れて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れています。私たちが悩み苦しむ時、それはあなた方の慰めと救いになります。また私たちが慰められる時、それはあなた方の慰めになり、あなた方が私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるためです。云々」と書いています。こうして遠く離れている人同志でも、主キリストにおいて苦しみや慰めを分かち合い助け合いながら信仰に生きることが、私たちにとっても大切なのではないでしょうか。私は、私がお世話になったドイツ人宣教師たちの模範に従って、煉獄といわれる清めの状態に置かれているあの世の霊魂たちのために、毎日小さな祈りや苦しみを献げていますが、時々その清めの霊魂たちに教えられ助けられたのではないかと思うような、小さな気付きや導き・助けなどを体験しています。それで、あの世の人たちも主において私たちと一つに結ばれており、互いに助け合うことができるのだと確信しています。

⑨ 本日の福音は、ヨルダン川で主イエスに悔い改めの洗礼を授けて天からの証しを目撃した洗礼者ヨハネが、そのイエスについて人々に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊を」という言葉で始まる証しをなした話であります。しかし、これについては先週の日曜日にも話しましたので、ここでは省きましょう。全人類の罪科を背負ってその赦しを神に願いつつ生き抜き、受難死を遂げられた神の御子キリストにおいて、私たちは皆一つの聖なる体の細胞のようになって、相互に深く結ばれている存在であることを思い、愛と信頼と希望のうちに互いに助け合い補い合って生きるよう心がけましょう。