2014年10月12日日曜日

説教集A2011年:第28主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願460 叙唱578~>
 第1朗読  イザヤ書 25章6節~10節a
 答唱詩編  123(1, 3, 4)(詩編 23・2+3, 5, 6)
 第2朗読  フィリピの信徒への手紙 4章12節~14節,19節~20節
 アレルヤ唱 273(28A)(エフェソ1・17+18参照)
 福音朗読  マタイによる福音書 22章1節~14節 △22・1-10

   ご存じのように、イザヤ書の1章から39章までは、紀元前8世紀の末葉に第一イザヤ預言者が語った預言とされています。しかし、本日の第一朗読を含む24章から27章までは、「イザヤの黙示」と呼ばれていて、その百数十年後にエルサレムの滅亡とバビロン捕囚を体験し、その苦難からの解放を待ち望んでいる神の民への神の言葉であるようです。しかしそれだけではなく、更に遠い将来に神が死を永久に滅ぼす世の終りのことについても、神は啓示しておられるようです。本日の第一朗読には、前半に「主はこの山で、全ての民の顔を包んでいた布と、全ての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、全ての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去って下さる」という言葉が読まれますが、これは世の終わりに救われる人類についての預言であると思われます。「その日に人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちは待ち望んでいた。この方が、私たちを救って下さる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう。云々」の話も、世の終わりに救い出された人たちの口にする言葉なのではないでしょうか。主はこの「イザヤの黙示」の中で、実に遠い将来の出来事を啓示しておられるのだと思われます。

   本日の第二朗読は、フィリッピの信徒団に宛てた書簡の最後の章からの引用ですが、使徒パウロはここで、ローマで囚われの身となっている自分に対するフィリッピの信徒たちの各種の援助に感謝しています。そして「私の神は」「キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものを全て満たして下さいます」という、フィリッピの信徒たちに対する神からの報いについて表明しています。囚われの身である使徒自身は受けたご恩に何もお返しできなくても、自分の命をかけてお仕えしている神が、彼らのその親切に豊かに報いて下さるというこの信仰は、使徒のそれまでの数々の体験に基づく確信であると思いますが、現代の私たちにとっても大切だと思います。私たちも、知人の信徒や地元の人たちから日々多くのものを頂戴しており、その親切や奉仕に十分にお報いできずにいることが多いと思います。しかし、使徒パウロのように神に信仰と希望の眼を向け、神がそれらの親切や奉仕に豊かにお報い下さるよう日々感謝の心で祈りましょう。そうすればやがてパウロのように、「神があなた方に必要なものを全て満たして下さいます」と、体験に基づく確信をもって、その人たちに申し上げることもできるようになることでしょう。私たちの信じている神は、その福音のために全てを捧げている人に対して為された親切には、ご自身で十分にお報い下さる神ですから。

   しかし、そうなるには、祈りだけではなく実践が必要だと思います。私は、単に恩人・知人のために祈るだけではなく、日々の小さな不自由、小さな貧しさと苦しみ、水や電気などの小さな節約などを、難民や孤独な老人・病人たちの苦しみを緩和してもらうために、密かに神にお献げしています。それはあどけない小さな子供がなしているような献げで、外的金銭的には何の価値もない奉仕ですが、神は幼子のような心のそのような小さな清貧愛を殊の外お喜び下さり、その心の祈りや願いを聞き入れて下さるということを、数多く体験しています。これは、全てを合理的に考える今の世の知者や賢者には神によって隠されている、人生の秘訣だと思います。幼子の心で清貧愛に励みましょう。アシジの聖フランシスコだけではなく、他の多くの聖人たちも、人目に隠れた小さな個人的清貧・節約が神の関心を引き、神から豊かな恵みを呼び下す道であることを体験しています。私たちも、あまり代り映えのない今の世の平凡な人生に、密かな心の喜びを齎すこの秘訣を大切に致しましょう。
   本日の福音は、主がユダヤ人の祭司長や民の長老たちに語られた譬え話ですが、神からの度重なる新しい招きや呼びかけを無視し、拒み続けていたその人たちの町が軍隊によって滅ぼされ焼き払われるというような悲劇は、エルサレム滅亡の時点だけではなく、ある意味ではこの世の終わりの時にも実際に、しかも大規模に発生すると思われます。私たちの奥底の心への神からの招きは、はっきりとした外的表現をとってなされると考えてはなりません。隠れた所におられて隠れた所を見ておられる神は、日常茶飯事の小さな出来事や小さな出会いの形で、そっと私たち各人の奥底の心に呼びかけておられるのですから。この世の生活の外的幸せや外的損得にばかり目を向けていますと、奥底の心に対する神からのその密かな招きを無視してしまいます。気をつけましょう。極度の豊かさと便利さ、並びに情報のネットワークを世界中に行き渡らせた現代文明の世界は、最近政治的にも経済的にも大きく揺れ動いているように見えます。内部崩壊の危険性もゆっくりと高まって来ているように思われます。人類を取り巻き支えている大自然界にも、大きな過渡期に起こり勝ちな不気味な動きが多発しているようですが、聖書に予告されている世の終りが近づいている兆しなのではないでしょうか。これまで以上に神よりの呼びかけにすぐに聴き従うよう、心の耳を澄ましていましょう。
   主の譬え話の後半には、招かれた来客には無料で提供される婚礼の礼服を、着用せずに婚宴の席、すなわち神の国に入って来た無礼者に対する、神の厳しい断罪が語られています。この礼服は何を指しているのでしょうか。私はそれを、先ほど話した幼子のような心の小さな清貧愛、貧しい人・苦しむ人たちの労苦を和らげるために献げられる小さな博愛の実践と考えています。それは神から与えられる奉仕的博愛の実践という礼服だと思いますが、いかがなものでしょうか。数多くの聖人たちの体験談や述懐などを読んでみますと、そこにはこのような小さな清貧愛や小さな事に対する忠実さが語られています。皆様の修道会の保護者聖ベルナルドも、修道者の清貧愛を積極的に推進した修道院長でした。私たちも、その実践的博愛の精神を、現代の豊かさの中で堅持し証しするよう心がけましょう。