2014年10月5日日曜日

説教集A2011年:第27主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願458 叙唱578~>
 第1朗読  イザヤ書 5章1節~7節
 答唱詩編  80(4, 5, 6)(詩編 80・9+10, 15+16, 18+19)
 第2朗読  フィリピの信徒への手紙 4章6節~9節
 アレルヤ唱 270(27A)(ヨハネ15・16参照)
 福音朗読  マタイによる福音書 21章33節~43節

   本日の第一朗読は、バビロン捕囚前の頃に、神の民イスラエルのバール神崇敬で大きく乱れた信仰生活を嘆かれる主のお言葉を、イザヤ預言者が語ったものであります。神はその中で、神の民をぶどう園に譬えています。神は肥沃な丘にそのぶどう園を設け、よく耕して石を除き、良い葡萄の種を植えたのだそうです。そしてぶどう園の真ん中に見張りの塔を建て、酒舟を掘り、良い葡萄の実るのを待っておられたのですが、実ったのは酸っぱい葡萄であった、といたく嘆いておられます。当時の神の民が、その後も預言者たちの声に聞き従おうとせずに神の罰を受け、バビロン捕囚という恐ろしい試練を体験させられたのは当然だと思います。神の御旨やお望み中心の立場に立って、奉仕的愛の実践に尽力しようとせずに、神を信じてはいてもいつもこの世の自分たちの生活の豊かさを第一にする考えや生き方を続け、神の期待しておられる良い実を結ばない者たちに対しては、神は時としてそれ程厳しく愛の躾けをなさる、恐ろしいお方だと思います。

   ところで、私たちの所属している現代日本の教会も、まだ神の期待しておられる程の良い実を結べずにいるのではないでしょうか。第二ヴァチカン公会議は「教会は本質的に宣教者である」と述べて、神からキリストの教会に呼び集められ洗礼や堅信の秘跡を受けたキリスト者は皆、宣教者として働く使命も恵みも頂いていることを強調したのですが、自由主義・個人主義が蔓延している日本社会のカトリック者たちの多くは、教会には来ていても積極的宣教活動は諦め、自分個人の生活にだけ眼を向けているのではないでしょうか。20世紀の後半に韓国教会が大きく発展したのには、軍事力強化に努める北朝鮮の恐怖に対抗して、国民が相互に堅く団結する必要性や神の御保護を祈り求める必要性などに迫られていた、という社会的事情もあったでしょうが、同時に信徒たちが自発的に祈りと宣教の小グループ集団を組織して、互に協力し合いながら、神が自分たちに恵まれた信仰を一人でも多くの人に伝えようと努めていたからだと思います。

   キリシタン時代の日本の教会も、同様に信徒たちの若々しい自発的宣教意欲によって、目覚ましい発展を遂げていました。それまでの社会秩序が崩壊し、各地で下剋上の内戦が頻発していた戦国時代の最中で、農民も商工民もその時その時の支配者たちに搾取されることが多く、一般に不安で貧しい生活を営んでいましたが、キリスト教信仰の恵みに浴した信徒たちは、あの世での仕合わせという希望に力づけられてよくその苦難に耐え、相互に助け合ってその信仰を他の人たちにも伝えようと励んでいました。宣教活動に実績をあげた人たちがその地の異教徒の支配者から命を狙われたこともありましたが、しかし、日々神からの特別の愛や神の働きを体験し実感していた信徒たちは、あの世での仕合わせを堅く信じつつ立派に殉教の栄冠を勝ち取り、その若さと熱意に溢れた信仰精神の模範によって、他の多くの人たちの信仰に希望と励ましの火を点じていました。神が信仰の恵みを受けた私たちから求めておられるのはこのような信仰の熱意であり、それが神に納入すべき信仰生活の実りであると思います。現代日本の教会もこのような魅力ある教会になるよう、神の照らしと助けの恵みを祈り求めましょう。

   各個人の生活を可能な限り豊かにまた便利にする現代技術文明が、近年中国や東南アジア諸国やインドに急速に普及し始めると、日本の大都市にあるような、いやそれを凌ぐもっと大きくもっと便利な高層建築が、各国の諸都市に次々と出現し、能力主義・自由主義・個人主義の風潮が、今やアジア諸国に驚くほど急速に普及しつつあるそうですが、それに伴って貧富の格差が広がり、伝統的社会道徳や精神的民族文化も急速に衰えつつあるようです。豊かさ・便利さを売り物にして世界的に普及しつつある現代技術文明は、人類をどこに導こうとしているのでしょうか。神はその動向を危険視し、今の人類がこの世の富や自分中心主義に警戒して、何よりも主キリストの命に養われ、主と一致して神中心に生きるよう、新たに強く呼びかけておられるように思いますが、いかがなものでしょうか。神からの声なき声の呼びかけに、心の耳を傾けましょう。

   本日の第二朗読は、使徒パウロがフィリッピの信徒団に宛てた書簡の最後の章からの引用であります。使徒はその中で、神への信仰と委ねに生きる人たちの内におられる神に、心の思いを打ち明けることを勧めています。目前の出来事だけに眼を向け、人間の自力でそれに対応しようとしていると思い煩いが多くなりますが、本日の第二朗読にありますように、何事もまず神に打ち明け、神に感謝と願いを捧げていますと、あらゆる人知を超える神の平和が、私たちの心と考えを導き護って下さいます。これは、使徒パウロが数多くの体験から確信した生活の知恵であると思います。激動する現代社会が産み出して止まない様々な不安の中で、私たちもこの勧めに従って生きるよう心がけましょう。
   本日の福音は、主イエスが祭司長や民の長老たちに語られた譬え話と、それに続く警告ですが、当時の祭司長や長老たちは、何事もこの世の生活の安泰を判断基準にして考え、生活していたように思われます。それで主は、彼らが神のぶどう園である神の民が神に納めるべき収穫を納めず、それを受け取るために神から派遣された僕たちを殺し、神の御子をもぶどう園の外にほうり出して殺してしまった、という譬え話を彼らに語って、収穫を納めない彼らから神のそのぶどう園が取り上げられ、「季節ごとに収穫を納める他の農夫たちに」与えられるという形でその話をまとめ、彼らに、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と警告しておられます。現代の教会も、もし神の求めておられる信仰生活の実を結ばないなら、やがて神からその心の奥に眠って新しい実を結ぼうとしない信仰を取り除かれる時が来るのではないでしょうか。主はこの福音を通して私たちにも、神に対する畏れの心で神の御旨と導きに心の眼を向けるよう、警告しておられるように思います。