2015年3月22日日曜日

説教集B2012年:2012年四旬節第5主日(三ケ日)

第1朗読 エレミア書 31章31~34節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章7~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 12章20~33節

   本日の第二朗読には、「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方 (すなわち天におられる父なる神) に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」という言葉が読まれます。全能の神の御子であられる主は、この世にお生まれになった時、実際にそこまでこの苦しみの世に生きる私たち人間の肉の弱さを背負い、苦しみながら泣きながら弱い人、苦しむ人に伴って生活し、父なる神に助けを願い求めつつ生きておられたのだと思います。全能の神の御子は、罪と闇に苦しむこの世の貧しい人たち、苦悩する人たちの間に生活し、その苦しみを分かち合うことによって、この現し世の苦しみを聖化し、神の超自然的恵みの器・手段に高めて下さったのではないでしょうか。「傷める貝にのみ真珠は宿る」と申しますが、体内に入った異物に苦しめば苦しむ程、アコヤ貝はそれを核にして大きな美しい真珠・光輝く真珠を生み出し、育て上げるのだと思います。ある聖人は、主キリストと一致して耐え忍ぶ苦しみが多くの恵みをもたらすことに感嘆し、苦しみを「第八の秘跡」と呼んだそうです。私たちの生活しているこの現し世には、病気・災難・誤解・不安・詐欺・失敗などから齎される試練や苦しみが数限りなく存在し、時々私たちの心を襲って苦しめ悩ましますが、その時この世に受肉し、私たちの人間性をしっかりと受け止めて聖化なされた救い主が、私たちの魂の中に深く隠れてその苦しみを一緒に耐え忍び、私たちの内に人間救済の超自然の恵み、超自然の真珠を産み出しておられることに心を向けましょう。

   本日の第二朗読には、主イエスは神の御独り子であっても、また激しい叫び声をあげ、どれほど涙を流して祈っても、人間としてのその願いはそれだけでは天の御父に聞きいれられず、神を畏れ敬い、神の御旨中心に生きる僕の心を、「日ごろの態度」にもはっきりと表明し体現しておられたので、その実践的態度の中に主の従順心を御覧になっておられた神によって、その願いが聞きいれられたかのように述べられています。ヨハネ5章の中ほどに、主はユダヤ人たちに、「私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御旨を行おうとしているからである」と話しておられますが、何が正しいかという正義や権利の問題になると、私たち人間はとかく何かの法や何かの理論に基づいて権利や義務などについて考え勝ちです。しかしそれは、この世の人間社会には通用しても神には通用しません。神の上に法や理論を置くことになるからです。私たちの信仰生活においては、神の御旨だけが正義の基準であり、それを実践的に畏れ尊ぶ従順の生き方だけが、神の御前に義とされ、神に願いが聞き届けられる道であると信じます。主は、その模範を身を持って示しておられたのではないでしょうか。

   第二朗読から学びたいもう一つのことは、「多くの苦しみによって従順を学ばれ、完全な者となられたので」全ての人の「永遠の救いの源となった」という理由付けであります。神の子という肩書きや、修道者・司祭というような肩書きが幾つあっても、それだけではたとえどれ程多くの祈りを神に捧げても、人々の上に救いの恵みを豊かに呼び降すことはできないと思います。私たちの心の奥底には、人祖から受け継いだ自分中心の罪の根、不従順の罪の力がまだ根強く残っていて、神の働きを妨げて止まないでしょうから。その隠れている罪の力を、多くの苦しみに耐えることによって根絶し、神への徹底的従順を体得し体現して神の愛の恵みが心の底にまで行き届く人間になってこそ、神の御独り子と内的に深く結ばれた神の子・修道者・司祭となり、全ての人に救いの恵みを伝える神の器に高められて行くのではないでしょうか。人となられた神の子イエスを、人間としても初めから全てを知っておられて、何も学ぶ必要のなかった方と考えないように気をつけましょう。主は人間としては多くの苦しみによって神への従順を学び、最後まで内的に成長し続けられた方であったと思います。神は私たちも同じ様に従順によって内的に成長し続け、人類救済の業に参与するよう望んでおられるのではないでしょうか。主において私たちにも与えられているこの使命を、私たちもできるだけ忠実に果たすことができるよう、主の実践に学びましょう。

   主のご受難が間近に迫って来た頃の話である本日の福音には、まずユダヤ人の過越祭の時に礼拝するため、エルサレムに上って来た数人のギリシャ人たちが、ギリシャ系の名前を持つフィリッポとアンドレアスを介して、主に御目にかかりたいと願い出たことが語られています。彼らからの願い出を聞くとすぐに、主は、ギリシャ語原文によると「時が来た。人の子が栄光を受ける時が」と話し始められたのです。そのお言葉には、一種の感動のようなものが感じられます。主は以前に「善い牧者」について語られた時、「私にはこの囲いに入っていない羊たちがいる。私はそれらをも導かなければならない。…. こうして一つの群れ、一人の牧者となる。…. 私は命を捨てることができ、また再びそれを得ることができる。私は、この命令を父から受けた」などと話されましたが、異邦人の到来は、何かこの話と関係しているのではないでしょうか。主はギリシャ人たちの来訪の中に、何か御父からの徴を御覧になり、この時にあらためて全人類の罪を背負われたのではないでしょうか。とにかく主は、ギリシャ人たちの来訪を知らされると、突然ご自身の死について語られ、「私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名に栄光を現して下さい」などと祈りましたが、その時天から「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という声が響き渡ったようです。側にいた群衆はそれを、雷が鳴っただの、天使が語ったなどと思ったようですが、その声が、雷鳴のような威厳に満ちていたからであったと思われます。

   ところで、主が「栄光を受ける時」あるいは「御名に栄光を現す時」と表現しておられるその「時」は、主がその御命を捨てる受難死の時を指しています。主はその時について、「一粒の麦が地に落ちて、…. 死ねば多くの実を結ぶ」と説明し、更に弟子たちのためにも、「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所にいることになり、…. 父はその人を大切にして下さる」などと教えておられます。私たちも主と一致して神に敵対する人類の罪までも背負い、その罪に汚れた自分の命をいけにえとなして神に捧げるなら、そして地に葬られてその殻が破られるなら、その時、私たちのこの世の命の殻の中に孕まれていた神の子の永遠の命も輝き出て、多くの人を救いに導き、豊かな実を結ぶに至るのではないでしょうか。「私に従え」という主の御言葉は、そのことを指していると思います。私たち各人がそのようにしてそれぞれの死を神に捧げる時、本日の福音にあるように、神の栄光が私たち各人の上にも現れて、この世の支配者、悪霊たちを追放して下さるのではないでしょうか。それは、生身の弱さを背負う人間となられた主ご自身も、「私の魂は騒いでいる。何と言おうか。父よ、私をこの時から救って下さい」と御父に祈られた程、恐ろしい苦しみの「時」でしょうが、しかし、その魂がこの世の殻を破って輝かしい栄光の命に生まれ出る時でもあります。ちょうど昆虫が羽化して成虫になり、古い殻を捨て去る飛躍の時のように。


   主の受難死と復活を記念する聖週間の典礼を間近にして、本日の福音にある主のお言葉を心に銘記しながら、私たちも主と共に全てを全能の神に委ねつつ、大きな信頼のうちに自分の死を先取りし、内的に主の死を追体験するよう心がけましょう。主は「私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所に私に仕える者もいることになる」「父はその人を大切にして下さる」と語っておられるのですから。恐れずに、主と共に勇気をもって、苦しみと死に向かって進んで行きましょう。多くの人の救いのため、自分の命を主のいけにえに合わせて天の御父にお献げするために。