2010年11月14日日曜日

説教集C年: 2007年11月18日 (日)、2007年間第33主日(三ケ日)

(2007/11/18 ルカ21・5-19)

① いよいよ秋の暮、人生の終わりやこの世の終末を偲びつつ覚悟を固めるに相応しい季節になりました。平安前期の紀貫之の従兄弟で歌人の紀友則には、この世の悲哀感を慎ましやかに詠っているものが幾つもありますが、「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」と、晩秋の風のもの寂しさを「色なきもの」と表現しているのは、注目を引きます。この罪の世の事物は全て、その根底において無色で冷たい「無」と死の影に伴われており、晩秋の風はそのことを私たちに教えているのではないでしょうか。典礼暦が終わりに近づくこの時期のミサ聖祭に、教会も終末の時を思うに適した朗読を読ませています。本日の第一朗読は、旧約聖書最後の預言書マラキ書からの引用ですが、マラキはヘブライ語で「わが使者」という意味だそうで、長年のバビロン捕囚から帰郷した最初の人々は故国の荒廃に驚き、まずは自分たちの生活の建て直しに努めましたが、ハガイ預言者からの要求で神殿の再建を優先させられ、何とか外的に神殿もでき上がりました。しかし、預言者が約束した神の祝福を受けることはできずにいました。それで、マラキ預言者が神の言葉を受け、自分の望み第一で、神への愛故になしていない献げ物に問題があることなどを示したのが、マラキ書であると思います。

② 本日の朗読箇所は、恐ろしい終末の日には、日頃自分の社会的地位や外的業績などを誇りとしていた人々と自分の望み中心に生きていた人々が、全てわらのように焼き捨てられ、神を畏れ敬いつつ神の僕・婢のように慎ましく生きていた人たちが、義の太陽によって癒され救われると教えていると思います。私たちは果たしてその日に神から癒され救われるような、内的に神と共に生きる生き方をしているでしょうか。自分の死の時を先取りして、本日ゆっくりと反省してみましょう。もし私たちが何よりもこの世の人からよく思われようとして、神の眼を無視したり忘れたりしているなら、神を畏れ敬う者ではないと思います。福音書に語られている主の譬え話はほとんど皆、怠りの罪を警告していると言うことができましょう。私たちも神と共に、主キリストと共に生きるという信仰の務めを忘れたり怠ったりしていないか、自分の心の眼のつけ所を厳しく吟味してみましょう。単に神の国のためのこの世的教会組織の中で、この世の人々の方に眼を向けながら、人並みに働いているだけでは足りないと思います。各人が何よりも神に心の眼を向け、それぞれパーソナルな愛をもって神と共に生活し、日々神に自分の祈りと苦しみと働きを献げることを、神は求めておられるようですから。

③ 本日の第二朗読の出典であるテサロニケ後書の1章と2章に、使徒パウロはこの世の終りに主イエスが再臨なさることと、その時の神による裁きとその再臨の前に世に現れ出る徴、例えば神に反逆し、自分を神として神の聖座に居座る「滅びの子」の出現などの験について語っていますが、そのすぐ後に、
信徒団が自分たちから学んだ正統の教えを堅く守り、善い業と祈りなどに励むよう、いろいろと言葉を変えて繰り返し勧めています。その話の一つが、本日の第二朗読になっています。そこには、「働きたくない者は、食べてはならない」という命令も読まれますが、パウロは、間もなく世の終りが来ると考えて労働を軽視し、残り少ない人生を働かずに楽しもうとするような人たちに警告したのかも知れません。私たちも、世の終り前に世に広まると予告されている異端説や悪の勢力に警戒しつつ、最後まで神に忠実に留まり、働き続ける覚悟を新たに堅めていましょう。

④ 本日の福音は、人々がエルサレム神殿がヘロデ大王によって見事なギリシャの大理石で再建され、各地からの奉納物で飾られているのに見とれていた時に、主がお語りになった話ですが、「一つの石も石の上に残ることのない日が来る」という予言は、それから40年後の紀元70年に実際にその通り実現してしまいました。大理石は水にも風にも強い、非常に硬い石ですが、カーボンを多量に含有しているため火には弱く、火をかけられると燃え落ちる石ですから。アウグスト皇帝が推進したシルクロード貿易の発展で、当時のエルサレムには大勢の国際貿易商が来ており、町は豊かになって建設ブームが続いていましたが、経済的には豊かに発展しつつあったその町が急に徹底的廃墟と化してしまったのです。かつてなかったほど便利にまた豊かに発展しつつある現代世界も、内的堕落の道を歩むなら、いつ恐ろしく悲惨な崩壊に落ち込むか判りません。主はエルサレムの滅亡と重ねて、世の終りについても話しておられるからです。同じルカ福音の17章にも、主は人の子が再臨する時に起こる大災害について、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも、同じようなことが起こった。云々」と、その大災害が豊かさと繁栄の最中に突然襲来することを予告しておられます。私たちも覚悟していましょう。

⑤ 「そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」という質問に、主は本日の福音の中で、大きく分けて三つのことを教えておられます。その第一は、世を救うと唱道するような人々が多く現れるが彼らに従ってならないこと、戦争や暴動のことを聞いても怯えてはならないこと、これらの徴がまず起こっても世の終りはすぐには来ないことの三つであります。第二は、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に大地震・飢饉・疫病が起こって、天に恐ろしい現象や著しい徴が現れることです。そして第三は、これらのことが全て起こる前に、すなわち起こり始めている時に、キリスト者に対してなされる迫害であります。

⑥ ところで、主がここで話しておられるような徴は、一時的局部的には教会の二千年の歴史の中で幾度も発生しており、その徴があるから世の終りが近いと結論することはできません。しかし、第二と第三の徴はルカ福音書では終末時の出来事とされているようですから、大地震・飢饉・疫病・迫害などが世界中到る所で発生し、天空に何かこれまでになかったような恐ろしい現象や著しい徴が現れたりしたら、その時は世の終りが間近だと覚悟し、この世の事物やこの世の命に対する一切の執着を潔く断ち切って、ひたすら神から与えられるものだけに眼を向けつつ、神に対する信仰・希望・愛のうちに全てを耐え忍び、忍耐によって神の授けてくださる新しい命を勝ち取るよう努めましょう。それはある意味で、この世に死ぬことと同じでしょうが、しかし、信仰に生きる私たちにとっては、死は新しい世界への門であり、新しい命への誕生なのですから、「恐れてはならない」という主のお言葉を心に銘記しながら、大きな明るい希望と信頼のうちに、終末の災害・苦難を神の御手から感謝して受けるよう心がけましょう。主は本日の福音の後半に、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と智恵を、私があなた方に授ける」と約束しておられますし、「親、兄弟、親族、友人にまで裏切られ」「全ての人に憎まれ」ても、「あなた方の髪の毛一本も決してなくならない」と保障しておられます。そして本日の第一朗読にも、「その日は、と万軍の主は言われる」「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼には癒す力がある」という慰めの言葉が読まれます。神よりのこれらの言葉を心に堅持して、迫害には雄々しく忍耐強く対処するよう、今から覚悟を堅めていましょう。神は、弱い私たちを必ず助け導いて下さいます。