2015年4月5日日曜日

説教集B2012年:2012年復活の主日(三ケ日)

第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節

   本日の第一朗読は、使徒ペトロがカイザリアにいたローマ軍の百人隊長コルネリオとその家族・親戚・友人たちの前で話した説教からの引用ですが、使徒言行録10章の始めにはこのコルネリオについて、「彼はイタリア隊と呼ばれる部隊の百人隊長で信心深く、家族一同とともに神を畏れ敬い、民に数々の施しをし、絶えず神に祈っていた」と述べられています。ある日の午後三時頃、彼は幻の中で神の天使が家に入って来て、「コルネリオ」と呼びかけるのをはっきりと見た、と述べられています。彼は天使を見つめていたが、怖くなって「主よ、何でしょうか」と尋ねました。すると天使は、「あなたの祈りと施しは神の御前に届き、覚えられています。今ヨッパに人を遣わして、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は海辺にある皮なめしのシモンの家に泊まっています」と言いました。

   その百人隊長から派遣された使者たち三人が翌日の昼ごろに、カイザリアから48キロ程離れたヨッパに近づいたら、皮なめしの家の屋上で昼の祈りを唱えていたペトロも、脱魂状態の内に天から四隅を吊るされた大きな布が降りて来て、その布の上に地上のあらゆる動物や鳥などが乗せられているのを見ました。そしてペトロにそれらの生き物をほふって食べるように命ずる、神の声を聞きました。ペトロが驚いて、「主よ、清くない物、汚れた物は何一つ食べません」と答えると、「神が清めたものを清くないなどと言ってはならない」という神の声がありました。こういうことが三度も繰り返された後に、我に返ったペトロが、今見た幻示はいったい何だろうと思案していると、コルネリウスから派遣された使者たちがシモンの家を探し当てて、ペトロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっておられるかを尋ねました。その時神の霊がぺトロの中に働き、彼らが神から派遣された使者であることを告げ、ためらわずに彼らと一緒にカイザリアに行くよう勧めました。そこでペトロはそれが神の御旨であることを確信し、ヨッパにいる数人の男の信徒たちを連れて、その使者たちと一緒にカイザリアに行きました。信徒数人を連れて行ったのは、ユダヤ人の伝統的律法を順守していたエルサレムの信徒団から後で、カイザリアの異教徒たちの家に宿泊したことを律法違反として非難された時に、それが神からの特別の介入に従って行われたものであることを証言してもらうためでした。

   こうしてカイザリアに行ったペトロがそこに数日間滞在して、百人隊長コルネリオとその家族・友人たちに洗礼を授け、聖霊を呼び下すためになした説教からの引用が、只今ここで読まれた本日の第一朗読であります。マルコ受難記の最後には、主イエスの受難死の一部始終を目撃していた百人隊長が、主の死後すぐに「まことにこの人は神の子であった」と言った、という話がありますが、私はその人が、ペトロの説教を聞いて異教徒からの最初の受洗者となった百人隊長コルネリオではなかったか、と推察しています。というのは当時カイザリア港の傍に建つ宮殿に駐留していたローマ総督は、毎年の過越祭に大勢のユダヤ人巡礼団がエルサレムに集まる機会を利用して、ローマに反抗する暴動が起こらないよう、過越祭前後一週間余りをカイザリアの「イタリア隊」と呼ばれていた部隊一千人ほどを伴ってエルサレム神殿の北隣に建つアントニア城に滞在していたからであります。ローマ兵たちの中には、問題を起こすことの多かったガリラヤ出身のユダヤ人たちを軽蔑し、憎んでいた者たちも少なくなかったようですが、それに対する反動もあってか、この百人隊長たちは前述したようにユダヤ人たちの神を畏れ、日々神に祈っていたようです。現代の私たちの周辺にも、聖書に啓示されている真理は知らなくても、私たちの信ずる神を畏れ、神に感謝の祈りを捧げている異教徒はたくさんいると思います。私たちキリスト者は、知識中心の信仰心を最優先することなく、そういう隠れている「無名のキリスト者たち」を大切にし、心を大きく広げて無数の異教徒・未信仰者の中での神の働きのためにも、神に感謝と讃美の祈りを献げる使命を担っていると思います。神に献げた私たちの祈りの実りは、私たちが味わわなくて結構です。教外者のその人たちが神の恵みを豊かに受けるよう、大きく開いた明るい心で神に感謝と讃美の祈りを献げましょう。

   本日の福音は、主が復活なされた日の朝、マグダラのマリアから知らせを受けて、主の御遺体が葬られていた墓が空になっているのを、ぺトロと一緒に走って見に行った使徒ヨハネの報告です。ヨハネは二日前の夕刻、その墓に主のご遺体を埋葬した人たちの一人だったのですから、そのご遺体が墓にないということは、ヨハネにとって大きな驚きであったと思います。しかし彼は、その墓で見届けたことを冷静に細かく報告しています。キリスト時代のユダヤ人の間では遺体を石棺に入れる慣習はなく、遺体は通常洞穴の横壁に掘られたくぼみに寝せて置かれ、墓の外の入口は大きな石で閉じられていました。まだ誰も葬られたことのない新しい墓に運び込まれた主のご遺体も、おそらくそのようにして横壁に掘られた大きな窪みの台の上に寝せて置かれ、墓の外の入口は大きな石を転がして閉じられていたのだと思われます。その埋葬に立ち会ったヨハネは、御遺体が大きな亜麻布(オトニア)に包まれて結ばれてあったように書いています。この「結んだ」(エデサン)という言葉を「巻いた」と誤訳して、包帯で包まれていたかのように翻訳したプロテスタントの聖書もあったそうですが、権威ある聖書学者たちによりその誤訳は退けられています。4世紀にパレスチナで聖書の研究をした聖ヒエロニモも、オトニアをラテン語でlinteamina(大きな亜麻布)と正しく翻訳しています。

   ところで、十字架刑で死んだ主の傷だらけのご遺体は、衣服は脱がされていますので、そのまま洗わずに亜麻布に包んで葬られたと思われます。ユダヤ教の規定では、死後に出た血はそのまま遺体と一緒に葬るよう定められていますし、主の御遺体は日没までの限られた短い時間内に急いで埋葬されたのですから。全身に無数の血痕を留めた遺体をそのまま包んだ大きな亜麻布である、トリノの聖骸布は、そこに付着していたパレスチナ地方にしかない花の花粉からも、実際に主の御遺体を包んだ本物の亜麻布だと思います。聖骸布には、表の顔と裏の後頭部との間に25センチ程の空白がありますが、これが死人の口を塞ぐために、顎の下から頭の上にかけて巻いて縛った手ぬぐいの跡です。本日の福音ではそれが「頭を包んでいた覆い」と邦訳されていますが、頭をすっぽりと包んでいた「頬かぶり」のような布ではありません。誤解しないように致しましょう。わが国でも病人の臨終に立ち会ったことのある人は、死者の口を塞ぐために顎から頭にかけて手ぬぐいで縛るのを見ておられると思います。マタイやマルコ福音書によると、主は大きな声で叫んでお亡くなりになったのですから、その御遺体は十字架から取り下ろされるまでは、口を大きく開けておられたのではないでしょうか。


   主から特別に愛されていた使徒ヨハネは、無数の血痕の残る亜麻布が抜け殻のように平らになっているのを見て、主の御遺体は誰かに盗まれたのではなく、婦人たちが天使から聞いた通りに、またマルコ福音書によると主御自身が二度も「殺されて三日の後に復活する」と予告しておられたように、やはり復活なさったのではないかと考えたと思います。誰かが主の御遺体を盗んだのでしたら、血の付着した亜麻布をこのように綺麗に御遺体からはがすことはできなかったでしょうし、盗む時には御遺体を亜麻布に包まれたまま持ち去るのが当然と思われるでしょうから。しかし、旧約聖書の預言のことなどはまだよく知らずにいたので、その考えは聖書に基づく確信にまでは至っていなかったでしょう。先に墓に入ったペトロは、同じものを見ても唯いぶかるだけだったと思われますが、その後で墓に入ったヨハネは、漠然とながらも既に主の復活を信じ始めたのではないでしょうか。ですから本日の福音にあるように、「見て信じた」と書いたのだと思います。それは頭で理知的に考えた上での信仰ではなく、奥底の心の愛の感覚に基づく信仰だと思います。私は主の愛を全身で受け止めていたヨハネは、最後の晩餐の時にも特別に心を込めて聖体を拝領し、主に対する心の愛を磨いていたのではないかと想像しています。私たちも使徒ヨハネの模範に学んで、主に対する心の愛を日ごろから磨くよう心がけましょう。それが、主の復活を心で確信し、その信仰から大きな希望と喜びの恵みを受ける道だと思います。