2015年5月17日日曜日

説教集B2012年:2012年主の昇天(三ケ日)


第1朗読 使徒言行録 1章1~11節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~13節

福音朗読 マルコによる福音書 16章15~20節


2012年主の昇天(三ケ日)
   本日の第一朗読には、もはや死ぬことのない永遠の命に復活なされた主イエスは、40日間にわたって度々使徒たちに出現し、神の国についてお語りになったばかりでなく、彼らと一緒に食事をしたりして数多くの証拠を示しながら、実際に神出鬼没のあの世の命があること、そして主がその命に今も生きておられることを証しました。それは、本日の朗読にもあるように、彼らが「地の果てに至るまで」主の証人となり、大きな確信と希望をもって神の国の命に生きて見せ、その生き方を世界の人々に広めるためであったと思います。その40日間の最後頃、主は彼らと一緒に食事をしておられた時、エルサレムを離れないで、あなた方が私から聞いた父の約束を待っているように、とお命じになりました。「間もなく聖霊によって洗礼を授けられるから」と。

   このご命令をお与えになった後に、主は彼らの見ているうちに天に上げられて行きました。その時の主のお姿は、それまでとは違って天上の威光と喜びに輝いているように見えたのではないでしょうか。それで弟子たちは、主のそのお姿を追い求めて、いつまでも天を見詰めていたのだと思います。するとそこに、白衣の人の姿で二位の天使が彼らの側に現れ、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなた方から離れて天にあげられたイエスは、天に昇るのをあなた方が見たのと同じ有様で、また来るであろう」と告げました。天使たちのこの言葉は、今の世に生きる私たちにとっても忘れてならない言葉だと思います。私たちの未来には、主がかつて世の終りの恐ろしい苦難と不安について預言なされた時に、「その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて、雲に乗って来るのを見るであろう」(ルカ21: 27)とおっしゃった、力強く輝かしい勝利の主キリストを仰ぎ見る日が、全能の神によって備えられているのです。今生活しているこの世がどれ程乱れて絶望的に成ろうとも、その主のお言葉を信じつつ、明るい希望の裡に全てを耐え忍び、逞しく生き抜きましょう。

   ところで、復活なされた主イエスは世の終りに栄光に包まれてこの世の再臨なされるまでの間は、どこにおられるのでしょうか。天にお昇りになったのですから、天におられると申してよいでしょうが、その天を私たちがこの世の自然的な目で見慣れている上空の天と考えないように致しましょう。天使たちは、「なぜこの世の自然界の天を仰いで立っているのか」と、弟子たちがこの世の人間的自然的な観念に囚われているのを、咎めたのではないでしょうか。すでに過ぎ去った過去の主の人間的自然的なお姿だけを慕い求めるのではなく、主の新しいお姿に心の眼を向けるようにと、呼びかけていると考えられます。主はこの世の天へとお昇りになったのではなく、あの世の天、霊界の天へとお昇りになり、この世からは御身を隠されたのです。その霊界の天はどこにあるのでしょうか。私はそれは場所的には、神がお創りになった最高傑作であるこの水の惑星、即ち私たちの住むこの大地と同じ所にあり、主は今も霊的には私たちと同じ所に共存しておられると考えます。主は最後の晩餐の時に「私はあなた達をみなし児にはしておかない。私はあなた達の所に戻って来る。しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた達は私を見る。私が生き、あなた達も生きるからである。私が父の中におり、あなた達が私の中におり、私があなた達の中にいることを、その日にあなた達は悟るであろう」(ヨハネ14: 18-20)と、弟子たちにお語りになったからです。このお言葉は、この世の目ではもう私を見ることができなくなるが、暫くすると弟子たちには聖霊が降って、霊の眼で私を見るであろう、そして主が弟子たちの中にいることを悟るであろう、という意味だと思います。

   主が弟子たちの上に呼び下して主の教会を誕生させたその聖霊は、今も教会とともにあり、私たちの裡に働いています。私たちもその聖霊に生かされている信仰の眼、霊の眼をもって日々私たちと共におられる主を眺めるように努めましょう。激動する今の世の悩んでいる人類社会の中にも密かに受肉し、隠れて現存しておられる主の新しいお姿に対する心のセンスを磨きつつ、また主の栄光の再臨を待望しつつ、大きな明るい希望の内に神の国の証し人として生きるよう、私たちは神から求められているのではないでしょうか。この世の知識人たちは、2千年前の主の人間的この世的お姿を明らかにしようとし勝ちですが、復活なされた主は、私たちの過去におられるよりも、むしろいつも私たちの前に、私たちの未来に私たちを待っておられると信じます。主に対する愛と信仰を新たにしながら、その主の現存や働きについて証しする人になるよう、主は私たちをも招いておられるように思います

   主は山上の説教の中で、「隠れたことをご覧になるあなたの父は報いて下さる」だの、「隠れた所にお出でになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いて下さる」などと、「隠れた」という言葉を繰り返しながら天の御父について話しておられますが、思うにこれは、人間としての主の常日頃の実践から、ごく自然にお口から出た表現ではないでしょうか。私は父なる神も、復活の主ご自身も、聖霊も、いつも私たちの日常茶飯事に伴っておられ、人目に隠れたごく小さな行いを、隠れた所からご覧になっておられるように感じています。と申しますのは、私が何気なく自由になした些細な奉仕や親切などが、後になって見ると不思議に神に喜ばれ、神によって報いられているように覚える、小さな成功や巡り合わせなどの喜びを、数多く体験しているからです。人間的社会的には義務でも何でもない、社会と自然界に対する小さな自由な奉仕や親切を、あの世の神に心の眼を向けながら実践してみましょう。復活の主も、人目に隠れたそういう小さな実践を特別の関心をもって見ておられ、事ある毎にその自由な実践に報いて下さるように思います。そしてこういう体験の蓄積によって、あの世の神に対する信仰も地に着いたものとなり、祈りにも熱がこもるようになります。主は私たちの心が、復活なされた主の現存や働きについてのこのような体験に基づく証し人になることを、お望みなのではないでしょうか。私たちはこのようにして、数々の問題や不安に囲まれて呻吟している現代人に対して、主イエスの復活の証し人になることができます。

   本日の福音に述べられているような、「毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば治る」などの大きな奇跡は何一つ体験しなくても、悪魔の働きが益々活発になって来ているように思われる今の社会やこれからの社会で不安におびえる人々に、私たちが日々小さな事柄の中で体験する不思議な導きや助けなどに基づいて、復活の主が目には見えなくても今も私たちの身近に現存しておられ、事ある毎に導き助けてくださることを証しすること、そして人々の心に信仰に基づく希望の光を注ぐことはできると思います。現代に生きる私たちが小さいながらも、このようにして復活の主の現存と働きを証しすることができますように、恵みを願いながら本日のミサ聖祭を献げましょう。