2013年4月21日日曜日

説教集C年:2010復活第4主日(三ケ日)



朗読聖書: . 使徒 13: 14, 43~52. . 黙示 7: 9, 14b~17.

     Ⅲ. ヨハネ福音 10: 27~30.

    ご存じのように、復活節の第四主日は昔から「善き牧者の日」と呼ばれていますが、第二ヴァチカン公会議の後半頃から「世界召命祈願の日」ともされて、善き牧者・主キリストの生き方を体現するような司祭・修道者が一人でも多くなるよう、この日に全教会と心を合わせて祈ることが勧められています。私たちは毎月の第一月曜日に司祭・修道者の召命祈願の意向でミサ聖祭を献げており、毎週土曜日の晩の祈りにも、同じ意向で一つの祈りを唱えています。今日のこのミサ聖祭も、その意向でお献げ致します。ご一緒にお祈り下さい。日本の人口の少子化と高齢化の中で、現代のカトリック者数は減少しつつあり、それに応じて司祭・修道者の数も大きく減少して来ています。多くの人は、その統計的数値の変化だけを見て、これは現代文明社会の一般的趨勢でどうしようもない、と諦めているように見えますが、私は司祭・修道者減少の一番大きな原因は、日本のカトリック者たちの心に若々しい宣教精神が欠如していることにあると思います。四十数年前の公会議の時、カトリック教会は戦後の人類社会やキリスト者の動向を分析しつつ、初代教会の熱心に立ち戻ろうと決意を新たにして、キリスト教会は本質的にmissionaria (宣教的)であるという、神より教会に与えられている根本的使命を自覚しました。そしてこの観点から、「世界に開かれた教会」や「教会の現代化」などのモットーを生み出し、また理解していました。ですからその公会議の閉会式の時に私は、「さあこれから、カトリック教会の新しい世界的発展の時代が始まるのだ」と、明るい大きな希望に胸を膨らませていました。

    しかし、現実は正にその閉会式の時点から、カトリック教会の多くのメンバーたちが深刻な内部分裂と精神的マイナス面を露呈し始め、国際的に広まったその教会世俗化の乱れの中で、多くの司祭・修道者が続々と一般社会に戻ってしまいました。後で反省してみますと、福音の信仰精神・宣教精神で一般社会の精神的流れを浄化し神へと高めて行くべきなのに、多くのカトリック者は戦後の教育やマスコミを介して文明社会一般に広まり強まって来た便利主義、個人主義、自由主義の流れに心の中まで汚染されて、高度に発達した現代世界の世俗的流れに逆に押し流され、染められてしまったように見えます。

    堅実な宗教心も神の助けも見出せずにいる今の世の放埓な自由主義、個人主義の流れの中で、家庭でも職場でも心と心の結合が崩され解消されて、対立や孤独に苦しむ人、生きがいを見出せずに自死する人たちが激増しているのに、その人たちの心に主キリストの齎した信仰と希望の光を伝える力を失って、諦めているような今の日本の教会の姿を見ますと、悲しくなります。しかし、あの公会議を介して神が新しくお示しになった現代的福音宣教の精神は無くなってしまった訳ではなく、今も深層水のようになって、教会内の少数者の中で根強く継続し生きていると思います。その隠れている健全な公会議精神が、神によって現代の有意な若者たちの心に点火され、行き詰まりに直面しているように見える日本の教会を、新しく大きく発展させてくれるよう、明るい希望をもって神に祈り続けましょう。聖母マリアや使徒パウロのように、あるいは福者マザー・テレサのように、各人が「古いアダム」の精神に死んで、神の婢・神の僕として日々小さな事で神への従順に生きるなら、復活の主キリストが、また全能の神の霊が、その少数の「残りの人たち」の心を介して強力に働いて下さり、戦国末期の社会不安の中で大きな成果を上げたキリシタンたちのように、再び日本の宣教活動を立て直し発展させてくれると信じます。希望の内に祈りましょう。

    本日の短い福音の中で主は、「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。云々」と話しておられます。これは裏を返せば、人間が頭で作り上げた理念や主義・主張を中心にして、主の話されたお言葉を理解しよう、合理的に解釈しようとしても無駄で、不可解なものが次々と生じて来て心を悩まし、神が求めておられるような実を結べないことを示し、警告している言葉であると思います。神に背を向けて堕落した「古いアダム」の、自分の理解中心の自力主義精神に一度全く死んで、神の婢、神の僕となり、日々復活の主キリストの御声に聞き従って生きようと努めるなら、本日の福音にあるように、真の牧者であられる主の御声を正しく聞き分けることができるようになります。そして神に向かって大きく開かれたその小さな心の中にあの世の光が差し込んで明るく照らし、それまでいくら考えても不可解であったことが、次々と問題なく解消して行くのです。大切なのは、自分の理解を中心に据えるファリサイ派のパン種を捨て去り、まずメシアを神よりの人として受け入れ、その御声に従って生活しようとする謙虚な信仰の生き方を日々実践することです。そうすれば、神よりの恵みの光が心の闇を追い出して、主の御声を聞き分けることができるようになり、本当の真実が明らかになって行くことでしょう。福者マザー・テレサのように、現代社会の一番下の層でも、また社会の上流・中流の層でも、この精神で復活の主キリストの新しい導きや働きを証しする司祭・修道者が、一人でも多く現代社会の中に育ちますよう、本日のミサ聖祭の中で祈りましょう。