2013年3月31日日曜日

説教集C年:2010復活の主日(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒 10: 34a, 37~43. . コリント後書 5: 6b~8. 

. ヨハネ福音 20: 1~9.

    本日の第一朗読は、使徒ペトロがカイザリアにいるローマ軍の百人隊長コルネリオの家で話した説教の引用ですが、そこでは、律法に従って割礼を受けなければ救われない、などとは言われていません。ペトロは、神が主イエスを介して提供しておられる救いの業について説明した後に、自分たちはこのことを証しするよう、その主から命じられていると述べ、さらに「預言者たちも皆イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられると証ししています」と付け加えています。旧約時代からの数々の厳しい伝統的法規を遵守しなくても、救いの恵みを豊かに受ける新しい道が、主イエスの受難死と復活によって開かれ、全人類に提供されたのです。今日は、そのことを喜び神に感謝する祝日だと思います。

    ローマ皇帝アウグストゥスがシルクロード貿易を積極的に支援し、東洋と西洋との国際貿易が盛んになると、オリエント・地中海世界の社会が一層豊かになったばかりでなく、人口移動も盛んになって社会が際限なく多様化し始め、それまで各地の共同体や民族宗教の地盤となっていた伝統的慣習も価値観も、次第に時代遅れとみなされるようになってしまいました。このような状況は、2千年後の現代においても、国際的にもっと大規模な形で進行しつつあります。「時が満ちて」社会が大きく流動化し、こういう状況になった時、神はかねてから約束しておられた救い主をこの世にお遣わしになり、全人類のために新しい救いの道、新しい信仰生活の道を開いて下さったのです。それはもう、何か不動の掟や規則に従って、一律に型通りの生き方を自力で順守する生き方の道ではなく、むしろもっと自由に主キリストの命に内面から生かされ導かれながら、神への従順に生きる道、主が生前生きておられたように、何よりも神の愛、神の御旨に心の眼を向けつつ、実践的に奉仕の愛に生きる信仰生活の道と言ってよいと思います。

    神の愛、神の御旨は、ちょうど風のようにその時その時、その場その場の具体的状況や必要に応じて多様な現れ方を致します。私たちが自分中心の考えや欲求を退け、他者を差別扱いにするわが党主義も捨てて、ひたすら神の導きに従って生きようと努める時、神による救いの恵みが力強く私たちの内に働き、極度に多様化しつつある人類諸民族も、神において互いに相手を愛し赦しあって、平和に共存し、相互に助け合うことができるのではないでしょうか。現代のように社会が極度に多様化している時代には、各人が、また各国・各民族の政治家たちが、いくら心を開いて理性的に話し合ってみても、なかなか恒久的平和共存の体制を打ち立てることができません。しかし、主キリストのように己を無にして神の超越的権威に従おう、神の奉仕的愛に生きようとする時、そこに神の愛の霊が働き、心と心が自分中心・わが党中心の精神から解放されて、新しい平和共存の道が開けてくるのではないでしょうか。

    本日の第二朗読には、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。古いパン種を綺麗に取り除きなさい。….古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」という、神秘的な言葉が読まれます。聖書によりますと、この世の生きとし生けるもの全ては、罪に穢れたこの世に生れ落ちた時から、自分では自覚していなくても、罪と死の恐ろしい悪魔的力にまとわりつかれているのです。この世の私たちは皆死に向かって歩んでいるのであり、たとい人間の科学がどれ程発達しても、誰一人として死を免れることはできません。これは、人間が神に背を向けて悪魔の勧めに従うという、人間中心・被造物中心の生き方を選択して、神への感謝や神の御旨中心に生きるようにと注がれていた「神の命の息吹」という、一番大切な超自然の賜物を失ったことによる、霊界からの脱落、人間性倒錯の結果であり、罪と死の悪魔的力が支配するこの苦しみの世が続く限り、世の終りまで次々と無数の被造物を苦しめ続けることでしょう。エフェソ2:3には「私たちは皆、他の人々と同様、生まれつき神の怒りの子であった」という言葉が読まれますが、実際私たちは皆、生まれながらに神に背を向け、神を無視する自分中心主義の「古いアダムの罪」を心の奥に受け継いでおり、たとえ洗礼を受けても、心の奥底に潜むその罪の力に打ち克とう、自分中心の生き方に死んで神の御旨中心に生きようと、決心を固め努力しないでいますと、洗礼の秘跡の恵みも主キリストの愛の命も、私たちの心の中になかなか育って来ません。それで洗礼の泉は心の内に持ちながらも、その水に生かされることなく、いつまでも自分中心主義の人生を営んでしまいます。洗礼を受けた瞬間に全ての罪が赦されて全く無罪になる、などと考える人もいるようですが、神が問題にしておられる罪はそんな法的に有罪だの無罪だのと判決できるようなものではなく、魂が実際に自分中心のアダムの罪に死んで神中心の主キリストの生き方を身につけているか、だと思います。洗礼は、この新しい生き方を目指す決意を神に表明する時点で、それまでの罪は神から赦されますが、心の奥にはまだまだ古いアダムの罪が根強く根を張っており、これからその罪の力と戦いながら、主キリストの命に生かされるよう歩き始める出発点であると思います。

    しかし、使徒パウロがコリント後書5章の終りに書いているように、「神は罪と関わりのない方 (すなわちメシア) を私たちのために罪となさって」、これに全ての責任を背負わせ、恐ろしい苦しみの内に死の国のどん底にまで追いやられたのです。神の御独り子メシアは、罪と死の悪魔的力を打ち砕くため、火のように強い愛の精神、悪と戦う精神をもってご自身の命をその勢力に委ね、ちょうどヨナが大きな魚に呑み込まれたようにして、死に呑み込まれて地獄にまで降りて行き、全能の神の力によって罪と死の奥底の力を打ち破りつつ、そこから死ぬことのない栄光の愛の命に復活して、天の玉座にまで御昇りになったのだと思います。罪と死の力に対する神の愛のこの勝利を堅く信じて、その神の愛の内に生きるように努める人は、その信仰と愛の度合いに応じて主キリストの力強い復活の恵みに参与し、まだ罪と死の闇が支配しているこの世に生活していても、その闇に打ち勝つ主の力に内面から生かされ支えられつつ、喜びの内に生き且つ働く生き方を体験致します。

    ですから、私たちも主キリストのその復活の力によって生かされ高められて、罪と死の力を打ち破りつつ、永遠の愛の命に入ることができるように、「古いアダム」の生き方やパン種を用いないで、新しい過越祭・ミサ聖祭を、神中心主義の新しい精神、神への純粋で素直な感謝と従順の精神で祝いましょうというのが、本日の第二朗読の考えだと思います。使徒パウロによりますと、私たちの本当の愛の命は、深いところでキリストと共に神の内に隠されており、内的には既にキリストと共に復活させられているのです。主キリストのように一度は死の力に呑み込まれても、そこから天の栄光へと昇って行く道は、復活の主によって既に開かれているのです。それはしかし、主キリストのように死を経て全く新しい復活へと昇ってゆく道であることを心に銘記し、死ぬこと、自分に死ぬことを恐れないようにしましょう。

    現代のように全てが極度に流動化し多様化しつつある大きな過渡期には、社会の動きについて行けずに、社会からも家庭からも無視され忘れられて、孤独や不安に苦しんでいる人が激増していると思われます。私たち信仰に生きる者たちは、主キリストの復活の力に支えられて、宇宙万物の創り主・持ち主であられる天の御父の御旨を心に留めつつ生きることにより、罪と死の力を打ち砕く復活の主キリストの力強い恵みを、その人たちの上にも呼び降すことができるのではないでしょうか。永遠の命に復活して今も私たちと共にいて下さる主において、そのような恵みを孤独と不安に苦しむ人たちの上にも願い求めながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。