2013年3月29日金曜日

説教集C年:2010聖金曜日(三ケ日)



朗読聖書: . イザヤ 52: 13 ~ 53: 12. . ヘブライ 4: 14~16, 5: 7~9. 
. ヨハネ福音 18: 1~19, 42.

    ただ今のヨハネ受難記の中で、ピラトが「いったい何をしたのか」と尋ねたので、主は「私の国は、この世に属していない。云々」と神秘的なお答えをなさいましたが、それを聞いて、ピラトの心は何か謎に包まれたような思いがしたことでしょう。この世に属していない国なら、それはローマの主権外の国であり、この世のローマ法では裁くことのできない宗教的な国、神に属するあの世の国ということになるでしょう。今は捕縛されたみすぼらしい囚人の姿になっていますが、心の威厳を堅持しているこの男は、あの世の国の支配者だと言うのですから驚きますが、ちょっと戸惑った後、総督はもう一度「それでは、やはり王なのか」と質問してみました。主はそれに対して、「私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証しするために生まれ、そのためにこの世の来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」とお答えになりました。「あなたが言っていることです」という言い方は、相手の言葉を否定したものではなく、ただ相手の考えている意味とは多少違う意味で、王であることを肯定している、特殊な言い方の言葉だといわれています。マタイ福音書2章によりますと、東方の博士たちは「お生まれになったユダヤ人の王はどこに」と尋ねて、ヘロデ王たちを驚かせましたが、占星術の学者たちの間で古くから語り伝えられて来た予言に基づいて訪ねて来た博士たちのこの言葉も、お生まれになったばかりのその幼児が、この世の王ではないことを示していると思います。乳飲み子はこの世で王子ではあっても、まだ王ではありませんから。主イエスは実に、真の真理を証しするため最初から王としてこの世にお生まれになった方なのです。

    この世的には全く貧しくて、ローマ帝国にとっては少しも危険でないように見えるこの男に、ピラトは裁判官としてどう対応したらよいかに困ったことでしょうが、「真理とは何か」と吐き捨てるように言って、ユダヤ人たちの所に戻り、「私はあの男に何の罪も見いだせない。云々」と言いました。しかし、支配者に何かを強く要求するデモ隊のようになって、感情をますます高ぶらせているユダヤ人たちの気持ちを少しでも和らげ、大規模な暴動にはならないようにと、彼らに譲歩を重ねているうちに、遂に真理に属しているあの世の王を、十字架刑に渡してしまう羽目になってしまいました。感情的叫び声が飛び交う団体交渉の場には容易に悪霊たちも介入し、扇動するからだと思われます。同じ悪霊たちは、私たちの生活しているこの現代世界にも密かに伴っていると思います。私たちもその悪霊たちに乗ずる隙を与えないよう、日頃から神の働きにしっかりと身を寄せて警戒していましょう。

    聖書にも言われている通り、この世はまだまだ自分中心主義の暗闇の霊が跋扈(ばっこ)して止まない世界です。各地の堅実な伝統文化が拘束力を失って心の教育が崩れ勝ちな、現代のように大きな過渡期には、特に危険性が大きいと思います。私たちも気をつけましょう。私たちは、主キリストと同様神の真理に属する者、神に属する者であって、この世に国を建設するためではなく、何よりもあの世の神の国へと一人でも多くの人を導くために、神から召され派遣されている者なのです。悪霊が介入し勝ちなこの世の政治や政治的イデオロギーに対しては、少し距離を置いて対処しなければならないと思います。主イエスのあの世的神の国は、全く次元の異なる国なのですから。いつの日か、カトリック教会も主キリストのように受難の道を歩み、この世の悪魔的論理によって政治的に裁かれ、その資産を奪われるような事態が来るかも知れません。しかし、少しも慌てず驚かないように致しましょう。私たちには、この暗い儚い仮の世にではなく、永遠に続くあの世に栄光に輝く神の国が既に備えられているのですから。どんな苦難も死も恐れずに、主と共にあの世的王者の威厳を堅持しながらあくまでも神に忠実に留まり続け、一切の苦しみを多くの人の救いのため父なる神に献げましょう。私たちが主と一致してその精神に生きるなら、全能の神の霊が私たちの身も心も清め高めて、復活の栄光へと導いて下さいます。社会も教会も全てが恐ろしいほど大きく揺らぎつつある現代の過渡期に当たり、この希望と信頼をあくまでも堅持していましょう。神が私たちの内に働いて、万事をお望みのままに導き完成させて下さいます。