2013年3月29日金曜日

説教集C年:2010受難の主日(泰阜と三ケ日で)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 50: 4~7. Ⅱ. フィリピ 2: 6~11.
     Ⅲ. ルカ福音 23: 1~49. 

 イザヤ書の40章から55章までは、それ以前の紀元前8世紀に書かれた第一イザヤの預言とは異なり、バビロン捕囚の直後頃に書かれた別の人物第二イザヤの預言と言われています。例えば40:2には、「苦役の時は満ち、彼女の咎は償われた」「罪の全てに倍する報いを主の御手から受けた」などの言葉が読まれるからです。この第二イザヤの預言の中に、「主の僕の歌」と呼ばれるものが四つありますが、その内50章の中ほどに読まれる第三の「主の僕の歌」の中から、本日のミサの第一朗読が引用されています。この歌には「主なる神」という言葉が四回登場しますが、その内の三回が本日の第一朗読に読まれます。「主なる神は弟子としての舌を私に与える」「主なる神は私の耳を開かれた」「主なる神が助けて下さる」などと。そこには、自分で考え自分が主導権を取って神のために何かを為そうとする精神は全く見られず、自分の主であられる神の僕として、ひたすら主なる神の導き・働き・力に頼り、神の御声に弟子として聞き従おうとする精神一つに一貫している姿が読み取られます。そうでなければ耐え切れない程の、恐ろしい苦難と辱めが弱い人間である神の僕に、次々と襲いかかって来るからです。

 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「キリストは神の身分でありながら」「自分 
を無にして僕の身分になり」「へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と述べていますが、主が身をもってお示し下さったこの人間像が、現代の罪の世にあって私たちの目指すべき理想像なのではないでしょうか。戦後の自由主義教育・能力主義教育を受けたかなり多くの日本人は、無意識のうちに自分中心に親も社会も友人も巧みに利用しながら生きようとしているように見受けられます。それが、この世に生を享けた全ての人の当然の生き方と思っていることでしょう。しかし、創世記に啓示されている人祖の罪を参照しますと、それは神の掟に背いて禁断の木の実を食べ、内的仕合わせと平安から脱落した人間の生き方であって、神の命の息を吹き入れられた本来の人間の生き方ではないと思います。神を無視し、神の御声に耳を傾けつつ従順に生きようとしないそんな生き方、自分の考え中心に判断し、周辺にある全てを自分の道具や財産であるかのように自由に利用しようとするそんな生き方では、神からの祝福やご保護を豊かに受けることができず、いつも不安と恐れに伴われてストレスの多い人生を営むことになります。洗礼の秘跡に浴している私たち各人の心の奥にも、この世に死ぬまではまだ自分中心に自分の考えや望みのままに生きようとする「古いアダム」の精神が残っていて、時々頭をもたげようとします。四旬節の最後、御受難節を迎え、あらためて死と新しい生との秘跡である洗礼の泉に心を沈め、自分中心の生き方に死んでキリストの新しい命に深く一致し、主に生かされて生きる洗礼の誓いを新たに致しましょう。

 本日の福音の中で、ローマ総督ピラトは主イエスの無罪を3回も主張しています。 
最初にひと言尋問した後にすぐ、彼は祭司長たちと群集に向かって公然と、「私はこの男に何の罪も見出せない」と言い、その後も最後までその考えを変えていません。主の内には、ローマ法に違反するどんな犯罪も見られないからです。では、ピラトはなぜその主を公然と鞭打たせたりしたのでしょうか。思うにそれは、その場に集まっていた群衆が、サドカイ派やファリサイ派に扇動されたのかあまりにも激しい激昂を示していて、裁判を拒否したり無罪放免にしたりしたら、大きな暴動になり兼ねない程の勢いを示していたからだと思います。社会平和を何よりも重視していた当時のローマ法では、もしも大きな社会的暴動に発展したなら、裁判しなかった総督ピラトがその責任の一端を担わされて重罰を受け、罷免されるかも知れません。「この男はガリラヤから始めてユダヤ全土で民衆を扇動していた」という彼らの訴えを聞いて、彼は過越祭でエルサレムに滞在していたガリラヤの支配者ヘロデ王に裁いてもらおうとしました。しかし、そのヘロデ王も裁かずにその男を送り返して来たので、ピラトは死刑に当たる罪を犯していないこの男の処置に困り、目前の民衆が暴動を起こさないようにと願いつつ、彼らの気持ちに妥協して、この男がもう二度と民衆を教えたり扇動したりしないために、「鞭でこらしめて釈放しよう」と言ったのだと思います。しかし、罪がない者を鞭打たせるこの決定で、ピラトは道を誤り、大きな罪を犯してしまったのだと思います。彼は更に何とかこの男を釈放する道を求めて、民衆が求める罪人一人を特赦する過越祭の慣例に基づき、大悪人とされて嫌われているバラバとイエスとを並べて、イエスを特赦しようとしましたが、この試みも、「その男ではなく、バラバを釈放しろ」「その男は十字架につけろ」と叫び続ける民衆の要求に負けてしまいました。これも、ピラトの失策であったと思います。

 この罪や失策の故に彼はその妻からも見放され、やがては不幸になっ行ったようですが、私たちも変転する目前の社会の動きに迷わされずに、あくまでも神の導きに心の眼を向けながら、神への忠実に生きるよう心がけましょう。ヨハネ福音書19:13によると、ユダヤ人たちはイエスを釈放しようとするピラトに、「もしこの男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆皇帝に背いています」と叫んでいますが、もしピラトが何とかしてイエスを救おうと冷静に道を模索していたなら、「そんなら、この裁判をローマ皇帝に委ねよう」と答えて、使徒パウロについての総督裁判の時のように、裁判をローマ皇帝の許に移す道もあったのですが、ピラトにはそのような判断をする精神的ゆとりがなかったようです。私たちも気をつけましょう。生まれ育った社会事情や教育の違い、並びに刻々と変動し多様化するマスコミの情報や価値観の多様化で、現代の家庭や職場では心を割って話し合える相手に恵まれず、精神に孤独や不安を抱えている人が多いようです。昔に比べると住居も生活器具も交通も通信も遥かに便利で住みよくなり、欲しいものは何でも入手し易くなっているのですが、その豊かな現代文明に取り囲まれて、心の奥では自分の存在の意味が解らなくなり、益々深い孤独や空虚感に悩んでいるのかも知れません。

 2年前の6月に秋葉原で無差別に17人を殺傷した加藤智大(ともひろ)は、相手の顔が見えない孤独なメールによる交信に没頭し、遂にはいくらメールを出しても尋ねても訴えても返事が来ないので、自分の存在は社会から全く無視されていると思い込み、深刻な孤独感に悩んでいたと聞きます。そういう心に悪魔が囁き、誰でもよい一人でも多く、と思う無差別殺人へと駆り立てたようです。相手の顔が見えないメールの交信に夢中になっている人は、現代には他にも大勢いると思います。今後も似たような事件が発生するかも知れません。それを未然に防ぐには、どうしたらよいでしょうか。そういう人たちに、人間同士が直接に触れ合い語り合いぶっつかり合う体験をさせたり、美しい自然界から心が感動と喜びのうちに新しく学ぶような機会を提供したりすると良いかも知れませんが、現代の複雑な人間関係の中では、それは簡単ではないかも知れません。私は内的に混沌としているこういう現代文明の社会では、何よりも父なる神の存在、慈しみ深い神の働きに心の眼を向け、いつも神と共に生きる小さき聖テレジアの「幼児の道」が非常に大切であると考えます。心の孤独や虚無感を克服するために、何かの鍛錬や精神修養によって強くなろうとするのではなく、むしろ自分をますます小さくしてひたすら神に頼ろう、孤独も失敗も損失も全てを神に委ねつつ、神の御旨のままに神と共に生きようと心掛けると、不思議に神がこの小さな私の中で働いて下さり、私を道具のように使って下さるという喜ばしい体験を、私は小刻みに幾度も為しているからです。

 本日の福音によりますと、主は十字架を担う道の途中、エルサレムの女たちに警告の言葉をかけたり、十字架上では「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と祈ったりしておられますが、いずれ皆あの世に召される人々に対するこれらのお言葉も、大切だと思います。目前の外的出来事の是非に心を囚われることなく、万事が思うように行かない苦難の時、病苦や失敗の連続するような時には、いつも父なる神に心を向けて、この世の人々の救いのため自分の受けるそれらの苦しみや心配を神に捧げて祈るよう心がけましょう。それが、「私に従え」とおっしゃって模範を残された主に従う、私たちの道であると信じます。外的な出来事を何かの法や原則に基づいて理知的に考え判断する、この世の人々の判断に心を乱すことなく、私たちは主キリストと共に父なる神の御旨に従って、多くの人々の救いのため己を無にして喜んで自分の人生とこの世の命を捧げましょう。そうすれば、主において私たちも多くの人の救いのために豊かな恵みを天から呼び下し、神にも天使たちにも喜ばれると信じます。