2013年3月3日日曜日

説教集C年:2010四旬節第3主日(三ケ日)



朗読聖書: . 出エジプト 3: 1~8a, 13~15.  Ⅱ. コリント前 10: 1~6, 10~12. 
. ルカ福音 13: 1~9.

    本日の第一朗読は、エジプトを逃れてミディアン人の祭司の許に身を寄せ、その羊の群れを飼っていたモーセが、神の山ホレブ、すなわちシナイ山の麓で神に召された場面を扱っています。神からエジプトにいるイスラエル人たちの所に派遣されることになったモーセは、もし彼らが先祖の神について「何という名の神か」と尋ねたら、「何と答えるべきでしょうか」と尋ねます。当時のエジプトにはたくさんの神々が崇められていて、神々は皆それぞれの名をもっており、相互に関連付けられていましたから、そういう世界観の中で生まれ育った人たちが、何という名の神から派遣されて来たのかと尋ねるのは、当然予想される質問だと思います。

    主なる神はそれに答えて、「私はある」という名を教えて下さいました。ヘブライ語では多分一人称単数のehyeh(エイエ)だと思いますが、これを三人称単数に言い換えると、ヤーウェになると聞いています。古代人は、名は単なる呼び名ではなく、そのものの本性を表現すると考えていましたので、神はこの名でご自身の本質を表現なさったのだと思われます。私たち人間は、「ある」とか「存在する」という言葉を、ただそこにあるだけで、動くことも成長することも働くこともしないものと考え勝ちですが、実は、聖トマス・アクィナスも強調しているように、存在は最も活発でダイナミックな働きなのです。この世の一切の事物現象は本来本質的に無なのですが、神の「存在」という働きによってその本性も存在も与えられて存在するようになり、その存在も働きも絶えず神に支えられているのです。神はその大元の「存在」を本質としておられる方で、霊界と物質界の一切のものを、時間も空間も、その他の諸々の枠組みも全て創造なされ、絶えず支えておられる永遠の存在であり、現在も過去も未来も全ては神の御手に支えられ生かされてあるのですから、その全能の神から召されて派遣されるモーセは、何者をも恐れる必要がないのです。「存在」そのものであられる神がモーセと共にいて、救いの御業の全てをなそうしておられるのだという意味で、神はその御名を名乗られたのだと思います。私たちも皆、その全能の「存在神」を信奉しているのです。感謝と喜びの内に、日々明るい希望と信頼の心で生活いたしましょう。

    本日の福音は、二つの部分から構成されています。前半では、エルサレムで実際に起こったと思われるローマ軍によるガリラヤ人殺害事件が伝えられたのをきっかけに、主がお語りになった教えが、後半には、三年間も実を結ばないイチジクについての譬え話が語られています。ガリラヤ人殺害の事件が起こったのは、過越祭の時であったと思われます。毎年の過越祭にはガリラヤからの巡礼者たちも上京してエルサレムの人口が3倍ほどになるので、通常は港町カイザリアに滞在している千人ほどのローマ軍の一部も、この祭りの時にはローマ総督と共にエルサレムに滞在し、暴動が発生しないよう警備に当たっていました。ガリラヤは度々反ローマ運動の拠点とされていましたから。そのガリラヤから上京した人々と首都警備のローマ軍との間で、何かの偶発的事件が発生して、一部のガリラヤ人たちが殺害されたのかも知れません。「ピラトがガリラヤ人たちの血を彼らのいけにえに混ぜた」という言葉は、文字通りに解釈する必要はありません。いけにえの動物たちが屠られた時刻と同じ頃に、ガリラヤ人たちが殺害されたことを強調する、文学的表現であるとも考えられるからです。

    主はこの知らせを聞いて、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。それは、当時の律法学者・ファリサイ派たちが、勧善懲悪の合理的思想に基づいて、何か不慮の事件や災害などで犠牲者が出ると、その人には隠れた罪があったのではないか、などと考える思想を広めていたからだと思われます。現代でも時としてこのような推測を口にする人がいますが、主はこのようなこの世の不運や不幸を中心に版題する罪の概念や勧善懲悪思想をはっきりと退けられます。察するに主が考えておられる罪とは、神がこの世の不運や不幸によってその償いをお求めになる外的な掟違反や、先祖から受け継いだ心の穢れのようなものではなく、どの人間の心の奥にも根強くはびこって働いている、神に背を向け神を無視する自分中心主義の根性、暗い闇の力であり、いわば私たちの生来の人間性である「古いアダム」の心、人間中心主義の精神なのではないでしょうか。それは、洗礼を受けた私たちの心の奥にも実際に働いている罪の力であり、私たちが自分の受けた秘跡の恵みで、日々それに負けないよう戦うべき根強い現実的力であると思います。これ迄は一度も不運な事件や災害に出会うことなく生活し、今も仕合わせに生きているとしても、悔い改めてこの世に来られた神の御子の呼びかけと働きとを受け入れ、それに従って神の僕、神の婢として神中心に生きようとしないなら、遠からず皆不運によって滅びてしまうのだ、と主はこの時、恐らく真剣なお顔で人々に警告なされたのではないでしょうか。

    そして続いて話された後半の譬え話も、その差し迫っている不幸の警告と関係して、悔い改めを勧める話であったと思われます。ぶどう園の主人は、実を結ぶ年になっているイチジクの木が、なお3年も忍耐して待ったのに実をつけないのだから、「切り倒してしまえ」と命じます。それに対して園丁が、「ご主人様、今年もどうぞこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい」と願っている所で話が終わっています。受難死を間近にしておられた主はこの話で、神の働きに結ばれ支えられて実を結ぶよう早く悔い改めなければ、切り倒されてしまう時はもう迫っているのだ、今はエルサレムにとって最後の憐れみの期間なのだ、と強く訴えておられるのではないでしょうか。四旬節に当たり、私たちも主の警告と悔い改めの勧めとを、私たちの時代に対してもなされている警告として真摯に受け止め、目に見えないながら今の私たちの所にも実際に現存し、神中心に生きるよう求めておられる主に日々もっと心の眼を向け、信仰生活の改善に努める決心を新たに主に捧げましょう。