2013年2月24日日曜日

説教集C年:2010年四旬節第2主日(三ケ日)



朗読聖書:. 創世記 15: 5~12, 17~18. . フィリピ 3: 17~4:1.
     . ルカ福音 9: 28b~36.

    四旬節の主日ミサの第一朗読には、いつも創世記や出エジプト記や預言書などから救いの歴史を思い起こさせる個所が選ばれていますが、第二主日には、いつもアブラハム物語の中から朗読されます。A年にはアブラハムの召し出し、B年には息子イサクのいけにえについての話が読まれます。そして今年C年には、イサクが生まれる前に既に年老いていたアブラハムに、神は彼の子孫が空の星のように数多くなると告げ、当時のアラム人商人らの契約の儀式に従って、この約束を必ず実現させることを契約という形で保証なされた話が読まれます。すなわち神は、アブラハムに幾つかの家畜や鳥を持って来させ、鳥以外の家畜を真っ二つに切り裂かせて、もし契約通りに実現しなかったらこのようになっても構わぬという意志表示の徴に、暗闇の中で燃える炎の形でそれらの死体の間をお通りになりました。ただそこをお通りになったのは神だけでしたから双務契約ではなく、神の側からだけの堅い一方的約束であったようです。それで聖書では屡々「約束」という表現も使われています。この約束の背後にある、信ずる者たちを徹底的に信頼させ安心させようとしておられる、神の大きな愛を受け止めましょう。

    本日の第二朗読に読まれる「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」という使徒パウロの嘆きの言葉は、数々の豊かさと便利さの中で生活しつつ、楽しみだけを追い求め勝ちになり勝ちな現代人の忘れてならない警告だと思います。洗礼の秘跡を受けても私たちの奥底の心の中にまだ生き残っている古いアダムの命が、苦しみに対してはあくまでも逃げ腰で、死についてもなるべく考えないようにし勝ちなのはよく解ります。しかし、キリストが最も強く力説し体現しておられる福音によると、神は私たちの死の背後に、主キリストにおいて復活の栄光を備え提供しておられるのです。父なる神の御旨に徹底的に従った主と一致し、主の力に生かされ支えられて、暗い苦しい死の門、死の暗いトンネルを通り抜けてこそ、私たちの卑しい体も主の栄光ある体と同じ姿に復活するのであることを、四旬節に当たって幾度も自分の心に言い聞かせましょう。そして自分の死の苦しみを先取りし、その苦しみを、主と共に多くの人の救いのために神にお献げする決意を新たに固めましょう。

    本日の福音にある主の御変容は、受難死直前の冬の時期に起こったのではなく、それよりも半年も前の夏の農閑期に起こった出来事であったと思います。以前にも話しましたが、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に述べられているこの出来事の前後の文脈を調べてみますと、主は洗礼者ヨハネが殺された後には、時々ガリラヤから離れて異邦人の住んでいる地方に旅するようになり、ヘルモン山の南麓に広がるフィリッポ・カイザリア地方、今のバニヤス地方に滞在なされた時に、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子たちにお尋ねになって、「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰宣言を聞いた後に、受難死と復活についての最初の予告をなさいました。主は受難死について予告なさる時は、いつも復活についても同時に予告しておられますが、しかしこのような受難予告は、弟子たちの心に少なからぬ不安と混乱とをもたらしたと思われます。

    ご受難までにはまだ数ヶ月ありますので、主はそれまでの間、地上的栄光に満ちたメシア像という、ユダヤ人一般の通念から抜け出せずにいる弟子たちの心を、時間をかけて新しい真のメシア像を受け入れるよう教育しようと意図しておられたと思います。その最初の段階で、主は三人の弟子たちだけを連れて、マタイとマルコによると、最初の受難予告から「六日の後」「高い山に登られ」ました。ルカによると、一同は「翌日に」山を下りて、麓で大勢の群集と他の弟子たちとに迎えられていますし、マタイとマルコによると、一行はその後でガリラヤに行っていますから、ご変容の山は、ローマに反抗する暴動の発生したガリラヤでの不測の事態に備えて、当時ローマ軍の砦があったと聞く、ガリラヤ中央部の海抜588mのターボル山ではなかったと思われます。大ヘルモン山の辺りには標高2千メートル級の山が幾つもありますから、そのうちのどの山かは特定できませんが、そういう高い山で一夜を明かしたとしますと、それは始めにも申しましたように、夏の出来事であったと思われます。この世で世界を支配し、栄光の王座につくという現世的メシア像に囚われている弟子たちの心を、メシアの王国も栄光もあの世的なものであることを、体験を通しても段々と悟りへと導くために、主はまず三人の弟子たちと共にその山で一夜を過ごされたのだと思います。せめて三人の弟子たちには、主が受難死の後に復活して入る至福の栄光を垣間見せて、主の受難死という大きなショックから、彼らの心が新しい希望の内に立ち直り易くするために。死の苦しみは、父なる神が備えて待っていて下さる約束の国、天国の素晴らしい栄光への脱出過程なのです。主と内的に結ばれている私たちも皆、父なる神によってその栄光へと召されているのです。感謝と大きな明るい希望の内に、主と共に、死のトンネルを恐れずにあくまでも神に忠実に従って行く心構えを、今からしっかりと整え、堅めていましょう。

    今年はわが国で「国民読書年」とされていることを、御存じでしょうか。今の若い人たちの多くは、日々マスコミによって注ぎこまれる膨大な量の情報の海に弄ばれているからなのか、昔の人たちのように読書によってこつこつと必要な硬い知識を集め、自分で咀嚼しながら摂取するという苦労をしなくなっています。そのためマスコミによって提供された情報は自分の身の内には入っても、摂取されて骨太の強い人間を造り上げることなく、心の体力は増進せずに、いつまでも外からのマスコミのみに依存するひ弱な体質になっているのではないでしょうか。外の社会が平穏無事である間はそれでも構いませんが、もし何か社会に不穏な動きが始まったり、マスコミを牛耳る危険分子が現れたりすると、社会の多くの人を不幸にする流れに抵抗できずに、不幸になって行く危険が大きいと思います。今まだ若い日本人たちが、そのような内的に無力でひ弱な人間、自分の力でしっかりと堅実に考え、批判し建設する事のできない人間になってしまわないようにと、「国民読書年」が立ち上げられ、読書が推奨されているのではないでしょうか。

    私がこんな話をしましたのは、現実のカトリック者の中にも、外的豊かさの中で現代のマスコミの流れに汚染され押し流されて、無意識の内にキリストの十字架に敵対して歩んでいる人が、信徒の中にも修道者や聖職者の中にも少なくないように思うからなのです。黙示録3章の後半に、主はラオディキアの信徒団に宛てて、「私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくも熱くもなく、生ぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、自分は金持ちだ、満ち足りている、と言っているが、自分が哀れな者、貧しく目の見えない者、裸であることが解っていない」などと厳しく糾弾した後に、「私は愛する者を皆叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努め、悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って叩いている。云々」と、天使に手紙を書き送らせています。わが国の日本人カトリック者は統計では四十数万人ですが、全国各地の教会をめぐってみますと、それらの信徒の大多数は教会のミサに出席しなくなっており、昔に比べると、司祭も信徒も心の若さと宣教意欲を失って、ただ少人数となった自分たちだけで仲良く過ごしているという印象を受けます。こんなことで良いのでしょうか。四十数年前に折角公会議を開催されて、現代教会の目指すべき道が神から明示されているのに、いつまでもこんなに生ぬるい不熱心な信仰生活に留まっていては、神からの厳しい天罰を招くのではないでしょうか。四旬節に当たりせめて私たちは、一般社会の流れのままに、あるいは現代のマスコミから吹きこまれる価値観に従って日々の生活を営むのではなく、何よりも神よりの厳しい呼びかけに心の眼を向け、神の僕・婢として謙虚に忠実に生きるよう心掛けましょう。そのための目覚めと悔い改めの恵みを願いつつ、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。