2013年2月10日日曜日

説教集C年:2010年間第5主日(三ケ日)

朗読聖書:  Ⅰ. イザヤ 6: 1~2a, 3~8.
                Ⅱ. コリント前 15: 1~11.
           Ⅲ. ルカ福音 5: 1~11.

    先週の日曜日には、内気な性格のエレミヤ預言者の召命についての話がありましたが、本日の第一朗読は、積極的性格のイザヤ預言者の召命についての話であります。「ウジヤ王が死んだ年のこと」とありますが、それは紀元前735年頃のことだったようです。国威を内外に宣揚したウジヤ王を失って、国民の間ではこれからの時代や社会などについて、不安が囁かれていたかも知れません。イザヤはそういう国情の時に、神から預言者になるよう召されたのだと思います。彼はエルサレム神殿で、天高くにある御座に座しておられる神なる主と、その衣のすそが神殿いっぱいに広がっている、壮大な情景の幻を見ました。上空には大天使セラフィムたちが互いに呼び交わして、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌っていました。その荘厳盛大な讃歌で、神殿は揺れ動き、煙に満たされるに至りました。

    罪ある人間が神を見たら死ぬ、と信じられていた時代でしたので、イザヤは「災いだ。私は滅ぼされる」と叫びました。するとセラフィム天使のひとりが飛んで来て、祭壇から火ばさみで取った炭火をイザヤの口に触れさせて、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と言いました。イザヤは自分の罪を赦し取り除いて下さる神に出会ったのです。その時、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という神の御声が響き渡ったので、罪の赦しを体験したイザヤはすぐに、「私がここにいます。私を遣わして下さい」と答え、自分を浄めて下さった神の預言者として生き始めたのでした。自分の聖書研究や自分の力に基づいてではなく、神から示された幻・啓示に基づき、神から派遣されて働こうとしていることも大切です。

    ここでイザヤの見聞きした天使たちの讃歌、「聖なる、聖なる、聖なる」という言葉を連ねて神を讃える讃歌について、少し考えてみましょう。真・善・美などはこの世的価値観なので私たちに分かり易いですが、聖書に数多く使われている「聖」はあの世的価値観であります。この言葉を日々の祈りや讃歌を介して日常的に聞き慣れ、話し慣れていますと、私たちはその言葉をすっかり解っていると思うかも知れません。しかし、頭で理解しているその概念は、天使たちの讃歌を聴いて感動し畏敬の念に囚われたイザヤの心の悟りとは大きく異なるもの、人間理性が概念的に作り上げた形だけのもの、心の感動や畏敬の伴わないものではないでしょうか。聖書に登場する「聖」性は、広大な宇宙の創り主、所有主であられる神中心の精神で輝いている聖さ、深遠な愛と憐れみと威厳を感じさせる、この世を超絶した美しい聖さであると思います。

    主イエスは弟子たちから祈りを教えて下さいと願われた時、ルカ福音書によりますと、「父よ、御名が聖とされますように」という言葉で始まる祈りを教えて下さいました。この「聖とされる」という表現は、それまでどこの国の言葉にもなく、一般の人々には理解し難いので、以前には日本語で「御名が崇められますように」「御名が尊ばれますように」などと、人々に解り易いように言い換えて訳されたりしていましたが、神の僕・婢であるべき人間が主導権をとって神の御名を崇め尊ぶのは、主が教えて下さった祈りの精神ではないと思います。ラテン語でも他の多くの言語の訳でも、この個所は「聖とされる」という解りにくい表現をそのまま残しています。それで十数年前に、日本の聖公会とカトリック教会とが共同で「御名が聖とされますように」という改定訳を典礼に導入した時、私は嬉しく存じました。私はその時からこの祈りを唱える度毎に、天の御父中心主義の主のあの世的価値観、人生観、世界観が、私たちの心を聖め高めて下さるようにと、また天父の御旨中心の主の御精神がこの世に広まるようにと願っており、そしてこれが主の教えて下さった祈りの意味だと思っています。

    本日の福音では、ペトロとその漁師仲間たちの召し出しがテーマになっているようです。神の御言葉を聞こうとして押し寄せて来た群集に押されるようにして岸辺にまで来られた主は、そこに二そうの舟と数人の漁師たちとを御覧になり、舟から上がって網を洗っていたペトロの舟に乗せてもらい、岸から少し漕ぎ出すように頼んで、その舟の中から岸辺にいる群衆に教えを説きました。話し終えるとペトロに、沖の方に少し漕ぎ出して網を下ろすようお頼みになりました。夜通し漁をして疲れている漁の専門家ペトロは、昼の今時網を下ろしても何も取れず、無駄であるとは思っていましたが、漁師でない先生の「お言葉ですから」と、いわば先生に対する好意と尊敬の証しとして網を降ろしたのだと思われます。ギリシャ語原文では「私が網を降ろしましょう」となっていて、夜通し働き続けた「私たちが」ではありません。ペトロは、どうせ今日は魚がいないのだからと、仲間たちには協力を願わず、軽い気持ちで網を降ろしたのだと思われます。ところが夥しい魚がかかって網が破れそうになったので、岸辺にいたもう一艘の舟の仲間たちに合図して助けてもらい、二艘の舟は沈みそうになる程、魚でいっぱいになりました。

    この大漁に驚き恐縮したペトロは、少し前には「ラビ(先生)」とお呼びした主の足元にひれ伏し、「キリエ(主よ)」とお呼びして、自分の罪深さを告白しました。心が自分の罪深さを直感して畏れにおびえる程、自分の舟に乗っておられる主の内に、神の力、神の臨在を痛感したのだと思います。主はそれに答えて、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と話し、ペトロを新しい人生へとお召しになり、ペトロとその仲間たちは、全てを捨てて主に従いました。聖書学者の雨宮神父によると、ここで「人間をとる」と訳されている動詞は、形容詞「生きている」と動詞「捕る」との合成語で、捕まえて生かすという意味合いの言葉だそうです。それで、ある聖書学者は「人間を生け捕る」と邦訳したことがあるそうですが、「生け捕る」は捕虜にするという意味になりますので、この邦訳は適当でないと思います。しかしとにかく、ここでは食べるためや何かの利益を得るために捕らえるのではなく、その人々にもっと遥かに仕合わせな、新しい自由な生き方をさせるために捕らえることを意味していると思います。自分の考えやこの世の常識に従ってではなく、今の自分には理解し難い主のお言葉にも、素直に従って主に奉仕しようと努めたことにより、この新しい生きがいと神の大きな祝福とを見出すに到った使徒ペトロに倣って、私たちも、日常茶飯事の中に思わぬ形で出会うことの多い神の御旨やお導きに、すぐ素直に従うことを優先する神の僕・婢としての心構えを日ごろから磨き、大切にしていましょう。最高のものは、私たちの心を危険から守るために与えられている不動の法ではなく、私たちの心を内側から活かす神の神秘な働きや、動的御旨なのですから。