2014年4月17日木曜日

説教集A2011年:2011年聖木曜日(三ケ日)



第1朗読 出エジプト記 12章1~8,11~14節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 11章23~26節
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節
 
  主の最後の晩餐を記念する今宵のミサ聖祭は、主の救いの恵みに参与する全ての者が、主に生かされる一つの体であることを示し実現する、一致の秘跡ミサ聖祭が主によって制定されたことを記念する「感謝の祭儀」であります。主はこの聖祭を、モーセの時代に始まるユダヤ人たちの過越の食事の仕方を大きく変えて、エジプトからの脱出を神に感謝しながら、その時神から教えられた食事を皆で分け合って食べる記念行事の内に神に祈るだけではなく、何よりも神の奉仕的な愛に生かされ養われる新たな「感謝の祭儀」となさったように思われます。
  只今朗読された福音にありますように、主はその晩餐の直前に上着を脱ぎ、大きな手拭いを腰にまとった奴隷のお姿になって、弟子たちの足を洗われたました。主は、世にいる弟子たちを極みまで愛され、その徹底的奉仕の愛を彼ら各人の心に、御自身の行いを通して印象深く伝えるために、奴隷の姿で各人の前に跪き、その足を洗うという行為をなさったのだと思います。同じ主は晩餐の最中には、ご自身を食物・飲み物となして弟子たちに与え、それを食べること、飲むことをお命じになりました。これも、彼ら各人の体の中にまで入って、内側から一人一人を生かそうとする、極みまでの奉仕的愛の表現であると思います。神のみがお出来になる、偉大な奇跡ではないでしょうか。
  主は私たちのこのミサ聖祭の中でも、同じ大きな愛をもって現存しておられます。そして洗礼によって主の普遍的祭司職に参与している私たち一人一人にも、主と一致してその祭司職を行使することを望んでおられると思います。それは内的・霊的に僕・婢の姿になり、一緒にいる兄弟姉妹たちの足を洗うこと、すなわちその罪科・穢れを自分の身に引き受け、それを背負いつつ神の御前に主と共に祈りと忍耐の内に償おうとする事だと思います。主が身を持ってお示しになった新約時代の祭司職はこのようなものであり、私たちは皆その祭司職に参与するよう主から呼び集められ、召されているのです。聖木曜日のミサ聖祭は、主によって与えられた新約のこの祭司職の制定を記念して、そこに込められている神の大きな恵みと神秘を堅く信じつつ、主と共に祭司として生きる決意を新たにして捧げる感謝の祭儀であります。
  ルカ福音書の2219節には、主が最後の晩餐の時「パンを取り、感謝を捧げてこれを割り、弟子たちに与えて言われた。これはあなたたちのために与えられる私の体である。云々」とありますが、マタイ福音書の26章やマルコ福音書の14章にも同様に述べられています。日本語訳の聖書には「これを割り」が、「これを裂き」あるいは「これを手で分け」などと邦訳されていますが、それはユダヤ教での過越祭の儀式を経験していない人たちを配慮しての邦訳だと思います。私は31年前の1980年に東京渋谷区にあるユダヤ教の会堂で、三日間かけてその宗教実践を二人のアメリカ生まれのラビからいろいろと教わましたが、その時実際に食したユダヤ人たちの種なしパンは、私の多少不正確な記憶では、長さ20cm、幅12cm、厚さ2cm程の茶褐色のクラッカーのようなパンで、私は2, 3枚貰って神言神学院の神学生たちにも見せ、食べてもらいました。それは種なしパンですから私たちがミサに使用しているホスチアと同様に、軽くて何カ月も保存できますし、エジプト脱出時のイスラエル人には適した食物であったと思います。過越祭にユダヤ人たちは、キリスト時代にも今も、そのパンを食べて昔を偲んでいますが、そのパンには4cm位の幅で小さな溝のようなものが付いており、その溝の所で割って食べるようになっています。邦訳の聖書では最後の晩餐でも、エマオの食事の時でも、「パンを裂いて」や「パンを手で分けて」となっていますが、これはユダヤ人の種なしパンを知らないからだと思います。彼らのパンは裂いたりちぎったりするものではなく、割るものなのです。
   この「割る」という行為には、大祭司であられる主にとっても私たちにとっても、深い意味があると思います。それは、他の人に食べてもらうために自分自身を割ること、壊すことを意味しているのではないでしょうか。それが、主がお定めになった新約時代の祭司の生き方だと思います。数十年前、あるプロテスタントの優れた説教師は、「神のために何か良いことをしようなどと考えてはいけない。ただ神から自分に与えられるものにひたすら従おうと努めなさい」と話されたそうですが、私は今もこの勧めを大切にしています。自分の心が善意から産み出す計画などは全て壊して無にし、ひたすら神の僕・婢として神の御旨に従い、人々の救いのために祈りや奉仕活動を捧げること。それが、新約時代の大祭司の生き方なのではないでしょうか。今宵、私たちもその主と一致するため、自分中心の夢や願い事を全て自分で壊して神にお献げし、自分を無にして多くの人々の救いのために自分の命を献げる決意を父なる神に表明しましょう。その時、大祭司キリストによる救いの恵みが、私たちを介して多くの人々の上に豊かに注がれると信じます。それが、神から新約時代の祭司職に召された私たちの生き方なのではないでしょうか。