2011年10月9日日曜日

説教集A年:2008年10月12日年間第28主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 25章6~10a節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章12~14、19~20節
福音朗読 マタイによる福音書 22章1~14節
 
① ご存じのように、イザヤ書の1章から39章までは、紀元前8世紀の末葉に第一イザヤ預言者が語った預言とされています。しかし、本日の第一朗読を含む24章から27章までは、「イザヤの黙示」と呼ばれていて、その百数十年後のバビロン捕囚からの解放を待ち望んでいる神の民への、神の言葉でもあるようです。そこには、エルサレムの都を破壊して荒廃させ、祭司も住民も捕虜が集められるようにして投獄される、恐ろしい神の裁きと、その後に都が再び神によって新しく建て直される様子が、具体的に描かれているからです。それで、紀元前6世紀半ばになってから書き入れられたのではないか、などと考える人もいるようです。しかし、神は遠い将来のことも預言者に啓示してお語りになることもできる方ですので、事実はどうであったは分かりません。

② 本日の第一朗読には、前半に「主はこの山で、全ての民の顔を包んでいた布と、全ての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、全ての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去って下さる」という言葉が読まれますが、これは単にバビロン捕囚後のエルサレムのことだけではなく、むしろもっと遥かに遠い将来の、世の終わり後の救われる人類についての預言ではないでしょうか。そして朗読の後半に読まれる、「その日に人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちは待ち望んでいた。この方が、私たちを救って下さる。云々」の話も、世の終わりの大波乱後に神の働きによって救い出された人たちの口にする言葉なのではないでしょうか。私はイザヤ預言書に読まれるこれらの預言は、バビロン捕囚後のイスラエル民族についてのことより、むしろ世の終わりに直面した人類についての預言と考えています。

③ 本日の第二朗読は、フィリッピの信徒団に宛てた書簡の最後の章からの引用ですが、使徒パウロはここで、ローマで囚われの身となっている自分に対するフィリッピの信徒たちの各種の援助に感謝しています。そして「私の神は」「キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものを全て満たして下さいます」という、フィリッピの信徒たちに対する感謝の信仰を表明しています。囚われの身である使徒自身は受けたご恩に何もお返しできなくても、自分の命をかけてお仕えしている神が彼らのその親切に十分に報いて下さるというこの信仰は、使徒のそれまでの数々の体験に基づく確信であると思いますが、現代の私たちにとっても大切だと思います。

④ しかし、単に頭でそう考えているだけの信仰では足りません。私たちもそれを使徒パウロのように、自分自身の数々の体験に基づく確信とするように心がけましょう。それには、祈りだけではなく実践が必要だと思います。私は、単に恩人・知人のために祈るだけではなく、日々小さな不自由、小さな貧困と苦しみ、水や電気などの小さな節約などを、難民や孤独な老人・病人たちの苦しみを緩和してもらうために、密かに神にお献げしています。それはあどけない小さな子供がなしているような献げで、外的金銭的には何の価値もない奉仕ですが、神は幼子のような心のそのような小さな清貧愛を殊のほかお喜び下さり、その心の祈りや願いを聞き入れて下さるということを、数多く体験しています。これは、全てを合理的に考える世の知者や賢者には神によって隠されている、人生の秘訣だと思います。幼子の心で清貧愛に励みましょう。アシジの聖フランシスコだけではなく、他の多くの聖人たちも、人目に隠れた小さな個人的清貧・節約が神の関心を引き、神から豊かな恵みを呼び下す道であることを体験しています。私たちも、人生のこの秘訣を大切に致しましょう。

⑤ 本日の福音は、主がユダヤ人の祭司長や民の長老たちに語られた譬え話ですが、このようなことはエルサレム滅亡の時点だけではなく、ある意味ではこの世の終わりの時にも実際に、しかも大規模に発生すると思います。私たちの奥底の心への神からの招きは、はっきりとした外的姿や言葉をとってなされる、と考えてはなりません。日常茶飯事の小さな出来事や出会いの形で、隠れた所におられて隠れた所を見ておられる神は、そっと私たち各人の奥底の心に呼びかけておられるのですから。この世の生活の外的幸せや外的損得にばかり目を向けていると、奥底の心に対するその招きを無視してしまう危険が大きくなります。気をつけましょう。

⑥ 主の譬え話の後半には、招かれた来客には入口で無料に提供される婚礼の礼服を、着用せずに婚宴の席、すなわち神の国に入って来た無礼者に対する、神の厳しい断罪が語られています。この礼服は何を指しているのでしょうか。私はそれを、先ほど話した幼子のような心の小さな清貧愛、貧しい人・苦しむ人たちの労苦を和らげるために献げられる小さな博愛の実践と考えています。いかがなものでしょうか。数多くの聖人たちの体験談や述懐などを読んでみますと、そこにこのような小さな清貧愛や小さなことに対する忠実が語られています。皆様の会の最大の保護者聖ベルナルドも、修道者の清貧については厳しい修道院長でした。私たちも、その精神を現代の豊かさの中で堅持し証しするよう心がけましょう。