2010年2月21日日曜日

説教集C年: 2007年2月25日 (日)、四旬節第1主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 26: 4~10. Ⅱ. ローマ 10: 8~13.
     Ⅲ. ルカ福音 4: 1~13.

① 本日の第一朗読である申命記は、モーセが自分が神から受けた啓示やこれまでの神の導き、ならびに荒れ野で民が犯した不信の罪などを回顧しながら、神の民に残した戒めの書であります。その中でモーセは、先祖アブラハムのことを「アラム人」といっていますが、アラム人たちはメソポタミア北部の平原に住んでいた遊牧の民で、同時に商業活動にも従事していたようで、創世記11章によると、アブラハムも父テラと共に、メソポタミア平野南部の大きな町ウルに滞在しています。キリスト時代には、アラム商人たちがペルシャを中心にオリエント東部一帯で活躍しており、彼らの話すアラマイ語がシリアとパレスチナから東の諸地方一帯で、国際語のようになっていました。ガリラヤの庶民たちも普通にアラマイ語を話していましたから、主も旧約聖書に使われているヘブライ語によく似たこの言葉で、異教徒たちとも自由に話し合っていたと思われます。

② 本日の第一朗読の最後にあるモーセの言葉「あなたの神、主の前にそれ(すなわち自分の働きの実り)を供え、あなたの神、主の前にひれ伏しなさい」は、四旬節の修行を始めた私たちにとっても、大切な勧めだと思います。イスラム教徒は金曜日を、ユダヤ人は土曜日を安息日としていますが、20数年前に東京でその人たちの安息日の礼拝を参観させていただいた時の印象では、そこには敬虔に生活している人たちが多く出席していて、神を自分の人生の主、絶対的中心として深くひれ伏して礼拝していました。神から豊かに恵みを頂戴している私たちも、負けてはならないと思います。

③ 本日の第二朗読に読まれる、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」という言葉も、軽く外的に受け止めないよう気をつけましょう。信仰を頭で理解している、いわば「頭の信仰」に生きている人にとっては、それは実に簡単で易し過ぎ、あまり意味のない条件に思われるかも知れません。しかし使徒パウロは、いわば「心の信仰」の立場でこの言葉を書いているのではないでしょうか。心は無意識界に属していますが、私たちの意志・望み・態度・実践などの本拠であり、日頃心に抱いている望み・不安・信仰などは、無意識のうちにその人の言葉や態度や夢などに表われ出るものです。頭で意識して受け入れた信仰が、心の中に根を下ろし、不屈の決意と結ばれた「心の信仰」となるには、度重なる実践が必要であり、時間がかかりますが、そのような「心の信仰」となる時に、私たちは義とされるのではないでしょうか。そしてその信仰を口でも公然と表明することによって、救いの恵みに浴するのだと思います。以前にも二度ほどアウグスティヌスの受洗者向け説教を引用して説明したことですが、聖体拝領の時に司祭が御聖体を見せながら「キリストの体」と言うと、拝領する信徒は「アーメン」と答えます。この「アーメン」は、御聖体の中での主の現存を信じ、主と一致して生きようとする心の信仰表明・決意表明ですので、小さな声で結構ですから、習慣的にならないよう心を込め、そこに現存なさる主に向かって表明するよう心がけましょう。口で公に表明して恵みを受けるのですから。

④ 本日の福音の始めには「イエスは聖霊に満ちて」という言葉があって、この福音箇所に続く次の段落の始めにも、「イエスは聖霊の力に満ちてガリラヤに帰った」という言葉が読まれます。この聖霊は救い主を敵の手から護り、その使命を全うさせるために与えられた神の力ですが、人祖の罪によってこの世の人間の心に対する大きな影響力・支配権を獲得している悪魔は、神と人間イエスとの間に割って入り、両者の絆を断ち切ろうとします。しかし、三度にわたる悪魔の試みは、いずれも申命記から引用された神の言葉により断固として退けられました。聖書に載っている神の言葉には、威厳に満ちた神の力が篭もっているからだと思います。私たちも、主や聖母の模範に学んで日々神の言葉を心の中に保持し、思い巡らしていましょう。いざ悪魔の誘いと思われる局面に出遭った時、断固としてその誘惑を退けることができるように。

⑤ examination という英語は「試験」と邦訳されていますが、試験の「試」、試みるという意味の漢字も、「験」、しるし・あかし・ききめという意味の漢字も、古い日本語では神の働きと関連して用いられていたと聞きます。神の御旨がどこにあるかを伺い試すのが「試」であり、その祈りに応えて与えられたしるしが「験」と考えられていたのだそうです。私たちも、絶えず謙虚に神の御旨を尋ね求め、それに従って生きるように努めたいものです。

⑥ しかし、聖書に使われている「試みる」というヘブライ語は、主語が神である時には「体験させる」「鍛える」「試す」などの意味合いになり、主語が人間で神に対して使われる時には「神の働きを不信の心で試す」という悪い意味になるのだそうです。神の霊は、時として私たちをも荒れ野のような苦境に追いやり、私たちの信仰を心底から鍛え上げようとなされたり、悪魔の誘惑に勝たせようとなされたりするかも知れません。そのような時には、本日の福音に描かれている主の模範を想起しながら、神の言葉の力に徹底的に身を献げ、決然として悪魔の誘惑を退ける恵みを、日ごろから神に願い求めていましょう。そうすれば、私たちは試練の度毎にますますしっかりと聖霊の働きに根ざし、ますます豊かに実を結ぶようになると信じます。

⑦ 主は、悪魔から「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」と誘惑された時、「人はパンだけで生きるものではない」という申命記の言葉でその誘いを退けておられますが、この言葉と共に、ヨハネ福音の4章34節に読まれる「私の食べ物は、私をお遣わしになった方の御旨を行い、その業を成し遂げることである」というお言葉も、合わせて心の中に留めて置きましょう。神や主キリストを、どこか遠く離れた天上の聖なる所に鎮座しておられる全知全能者と考え勝ちな「頭の信仰」者は、「神の御旨」と聞いても、それを何か自分の頭では識別し難い神のお望みやご計画と受け止めることが多いようですが、そんな風に静的に考えていたら、神の力は私たちの内に働かず、「神の御旨」は私たちの日々の糧にはなり得ません。主は天の御父の御旨をそんな風には考えず、今出遭っている目前の出来事の中でその御旨を神の霊によって鋭敏に感知し、その時その時のその具体的呼びかけに応えて、御旨の実行に努めておられたのだと思われます。

⑧ マザー・テレサのお言葉の中に、「遠い所にイエス様を探すのはお止めなさい。イエス様はあなたの側に、あなたと共におられるのです。常にあなたの灯火を灯し、いつでもイエス様を見るようにするだけです。その灯火を絶えず小さな愛のしずくで燃え続けさせましょう」というのがありますが、ここで「灯火」とあるのは、主の現存に対する心の信仰と愛の灯火だと思います。人間イエスも、目に見えない天の御父の身近な現存に対する信仰と愛の灯火を絶えず心に灯しながら、その時その時の天父の具体的御旨を発見しておられたのだと思います。主イエスにとって、「神の御旨」とはそういう身近で具体的な招きや呼びかけのようなものであったと思われます。それは、罪によって弱められ暗くされている私たち人間の自然的理性の光では見出せないでしょうが、心が聖霊の光に照らされ導かれるなら、次第に発見できるようになります。

⑨ 難しい理屈などは捨てて、幼子のように単純で素直な心になり、目前の事物現象の内に隠れて伴っておられる神に対する信仰と愛の灯火を心に灯して下さるよう、まず聖霊に願いましょう。日々己を無にして、この単純な願いを謙虚に続けていますと、心に次第に新しいセンスが生まれて働き出すようになります。そして小さくてもその時その時の神の御旨と思われるものを実践することに努めていますと、その実践を積み重ねるにつれて、次第に自分に対する神の深い愛と導きとを実感し、心に喜びと感謝の念が湧き出るのを覚えるようになります。人間イエスも聖母マリアも、このようにして「神の御旨」を心の糧として生きておられたのではないでしょうか。それは、実際に私たちの心を内面から養い強めて下さる霊的糧であり、弱い私たちにも摂取できる食べ物なのです。マザー・テレサも、その他の無数の聖人たちも、皆そのようにして深い喜びの内に心が養われ、逞しく生活できるようになったのではないでしょうか。四旬節の始めに当たり、私たちも決心を新たにして、主が歩まれたその聖なる信仰と愛の道を、聖霊の力によって歩み始めましょう。