2010年2月14日日曜日

説教集C年: 2007年2月11日 (日)、第6主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 17: 5~8. Ⅱ. コリント前 15: 12, 16~20.  Ⅲ. ルカ福音 6: 17, 20~26.

① 本日の第一朗読には、「呪われよ、人間に信頼し、….その心が主を離れ去っている人は」という恐ろしい呪いの言葉が読まれますが、エレミヤ預言者が神のこの言葉を受けた時は、ユダ王国の民は神からの呼びかけに従わずに、エジプトと手を結んでバビロニアの軍事力に抵抗しようとしていました。神の声に従おうとしていないその罪に対して、神は「呪われよ」という厳しい言葉で警告しているのです。

② 私たち人間は、とかく物事を今見える地上の現象からだけ考察して、もし今大きな危険や困難が目前に迫って来ているのでなければ、一部の慧眼の士や預言者が何と警告しても、それらの言葉を聞き流し勝ちですが、しかし、私たちが実際に生きているのは目前の地上世界だけではなく、もっと遥かに高さ深さのある大きな立方の世界であり、絶えず太陽から光や熱のエネルギーを受けたり、土の中深くにある流動的なマグマに支えられたりしながら生活を営んでいるのです。今目前には危険の兆候が全くなくても、人間の予測を遥かに超える大災害が、上の世界からも下の世界からも私たちの生活を破局に陥れる可能性は排除できません。この不安な現実世界全体を創造し支配しておられるのは、目に見えない神であります。私たちが今日あるのは、ひとえにその神のお蔭であり、神が私たちを愛し、護り、私たちのために全てのことを配慮して下さっているお蔭であることを忘れてはなりません。

③ 何よりもその神の導きに心の眼や耳を向け、それに信頼し従って生きる人々には、第一朗読の後半に「祝福されよ」という言葉で始まる神による保護と豊かな実りの恵みが、神ご自身によって約束されています。エレミヤは、神による呪いと祝福とを対比させて、人々から神の言葉に対する信頼と従順を求めているのです。危険や困難の多い現代においても、私たちの一番心がけるべきことは、神に感謝し、日々神と内的に深く結ばれて生きることであることを、あらためて心にしっかりと言い聞かせながら、生活するよう心がけましょう。

④ 毎日『教会の祈り』を唱えていて、また皆さんと一緒に詩篇や讃歌などを歌唱していて、この頃特に感じているのは、聖書時代に信仰に生きていた人たちは、日々目前に見ている自然現象や人との出遭い・交わり、あるいは国王や民族・国家などの背後に、いつも神の働き、導きや警告などを観ていたのではなかろうかということです。Magnificat やBenedictus の讃歌を日々愛唱していて、後年それをルカにも伝えたと思われる聖母マリアも、それらを唱えてザカリアの家での体験と感動を追体験しながら、今現に見聞きしている出来事の内に神の働きを生き生きと感知したり、神を讃えたりしておられたのではないでしょうか。私たちも詩篇や讃歌を歌唱する時、神をどこか遥かに遠い所で私たちの祈りを聞いておられる方とは思わずに、聖書時代の信仰者たちの感動を追体験しつつ、すぐ身近に現存しておられる神にその祈りを献げるように心がけましょう。

⑤ 本日の福音はマタイ5章の山上の説教の始めによく似ていますが、両者の間には大きな相違もあります。マタイの「幸いなるかな」は三人称で語られていて、何か生き方や心構えの規範や原則のようなものを並べて提示しているという印象を与えますが、ここでは二人称で語られていて、今現にそこに何かを求めに来ている夥しい民衆に、じかに強く呼びかけているという印象を与えています。それである聖書学者は、ルカのこの記事のほうが、主キリストが多くの民衆に話された時の状況に近いものであり、マタイはその話を自分なりに少し手を加えて提示したのではないかと考えています。

⑥ またマタイは幸いな人々の方だけを並べ立てていますが、ルカでは今飢え、今泣いている貧しい人々の仕合せを説いた話の後で、今満腹し、今笑っている富んでいる不幸な人々についての話も続いています。しかし、「富んでいるあなた方は、不幸である」などという、切り捨てるような言い方は、無数の貧しい人々に混じって、今そこに満腹し笑っている金持ちたちも来ていることを示しているのではなく、そこにはいなくても実社会の中にそのように生活している、無数の富める人々を指している言葉であるか、あるいはここで言われている「貧しい人」「富める人」は、いずれも理念的に捉えられた対照的に異なる二種類の人間像を指している言葉である、と考えられます。いずれにしても、ルカはマタイと違って、生き方や心構えの規範についてではなく、今現に生きている人間の姿について語っているのだと思われます。

⑦ それで私は少し勝手ながら、同一の人間の中に、幸いな貧者の生き方をする傾向と不幸な富者の生き方をする傾向とが共存しており、主は目前に集まっている大群衆の各人の心の中に混在して生きているこの二つの傾向に対して、それぞれ別々に呼びかけられたのだと考えます。貧しさそれ自体は、人を幸いにしませんが、貧しさ故に心が神を一心に求め、神にすがることを体得するに到るなら、その人は幸いだと思います。献身的な愛と従順を尊ぶ神の国はそのような人々のものなのですし、その人はやがて神によって心が豊かに満たされるのを体験するに至るでしょうから。

⑧ しかし、外的には貧しくとも神を求めず、神に頼ろうともせず、ただ社会を批判し、嘲笑するだけの自分中心の心に立て篭もっているなら、その人はある意味で、社会を利己的に利用しようとしている「富んでいる人々」、「今笑っている人々」のグループに属しているのではないでしょうか。そのような人々は、罪に穢れた私たちのこの世を、永遠に続く聖なる新しい愛の世界に変えるため、神が徹底的に滅ぼし浄化される終末の時、不安と恐ろしさで悲しみ泣く、不幸な人間になるのではないでしょうか。

⑨ なお主がここで、「神の国はあなた方のものである」、「人々に憎まれ、人の子のために追い出される時、….あなた方は幸いである」などと、現在形で話しておられることも、注目に値します。神の国は、既に主イエスの聖心の内に実現している現実であり、あなた方のすぐ傍にまで来ていること、望むならすぐに自分のものにできることを示している現在形であると思います。また主が、「もし万一人々に憎まれるなら」という一つの発生可能な事態について話されたのではなく、「人々に憎まれる時」と表現しておられることも、注目に値します。人の子のためにこの世の支配者サタンから、また神を拒否する世俗の人々から憎まれ排斥されるということは、表立ってはいなくても、今既に事ある毎に私たちを悩ます隠れた現実であることを示している現在形であると思います。神の国は、既に日々聖体拝領をしている私たちのものとなっていること、また心にお迎えした主と共に生活している私たちは、今日もサタンから憎まれていることを心に銘記しながら、覚悟を新たにして本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。