2010年2月28日日曜日

説教集C年: 2007年3月4日 (日)、四旬節第2主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ. 創世記 15: 5~12, 17~18. Ⅱ. フィリピ 3: 17~4:1.
     Ⅲ. ルカ福音 9: 28b~36.

① 本日の第一朗読には、古代のメソポタミア平野に住んでいたシュメール人やアラム商人たちの古い慣習が登場しています。彼らは重大な契約を締結する時、牛や羊などの動物を二つに切り裂き、その間の空間を双方の契約者が通ることにより、もし契約に背いたらこのようにされても構いません、という意志の印にしていました。神がアブラムに、牛と山羊と羊と鳩という四つの清い家畜をそのように用意させたのは、最高度に重要な契約を締結し、アブラムにそれを必ず守るという保障を与えようという、神の特別な意志表明であったと思います。家畜たちを二つに切り裂くと、夜の暗闇が迫って来る頃まで、禿鷹が獲物を狙って何度も舞い下りて来たので、それを追い払っているうちにアブラムはすっかり疲れ、深い眠りに陥ったようです。すると真夜中頃でしょうか、突然煙を吐く炉と燃える松明が現れ、目を覚ましたアブラムの見ている前で切り裂かれた動物たちの間をゆっくりと通り過ぎ、こうして神はアブラムと契約を結ばれたのです。ただそこを通ったのは神だけでしょうから、双務契約ではなく、神の側からだけの堅い一方的約束であったようです。ですから、聖書にはしばしば「約束」という表現も使われています。この約束の背後にある、信ずる者たちを徹底的に信頼させ安心させようとしておられる、神の大きな愛を受け止めましょう。

② 本日の第二朗読に読まれる「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」という使徒パウロの嘆きの言葉を忘れてはなりません。私たちの中の古いアダムの命が、死の苦しみに対してはあくまでも逃げ腰で、死についてなるべく考えないようにし勝ちなのはよく解ります。しかし、キリストが最も強く力説し、体現しておられる福音によると、神は私たちの死の背後に、主キリストにおいて復活の栄光を備え、提供しておられるのです。父なる神の御旨に徹底的に従った主と一致し、主の力に生かされ支えられて、暗い苦しい死の門、死のトンネルを抜け出てこそ、私たちの卑しい体も、主の栄光ある体と同じ姿に復活するのであることを、四旬節に当たって幾度も自分の心に言い聞かせましょう。そして自分の死の苦しみを先取りし、その苦しみを、主と共に多くの人の救いのために神にお献げする決意を新たに固めましょう。

③ 神から大きな愛をもって創造された私たち人間の本国は、忽ち過ぎ去るこの儚い苦しみの世にあるのではなく、本日の使徒パウロの言葉にもあるように「天に」、すなわち永遠に滅びることのないあの世にあるのです。そこに、私たちの本当の人生があるのです。その栄光の世を待ち望みながら、神に感謝し神を讃美しつつ、この苦しみの世を渡り歩きましょう。神は信仰と愛に生きるそのような人生の旅人を捜し求めておられるのか、その人に特別に慈しみの御眼を注いで下さいます。私はこの頃、数多くの人生体験を回顧しながら、このことを確信するようになりました。

④ 本日の福音にある主の御変容は、受難死直前の冬の時期に起こったのではなく、それよりも半年も前の夏の農閑期に起こった出来事であったと思います。以前にも話しましたが、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に述べられているこの出来事の前後の文脈を調べてみますと、主は洗礼者ヨハネが殺された後には、時々ガリラヤから離れて異邦人の住んでいる地方に旅するようになり、ヘルモン山の南麓に広がるフィリッポ・カイザリア地方、今のバニヤス地方に滞在なされた時に、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子たちにお尋ねになって、「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰宣言を聞いた後に、受難死と復活についての最初の予告をなさいました。主は受難死について予告なさる時は、いつも復活についても同時に予告しておられますが、しかしこのような受難予告は、弟子たちの心に少なからぬ不安と混乱とをもたらしたと思われます。

⑤ ご受難までにはまだ数ヶ月ありますので、主はそれまでの間、地上的栄光に満ちたメシア像という、ユダヤ人一般の通念から抜け出せずにいる弟子たちの心を、時間をかけて新しい真のメシア像を受け入れるよう教育しようと意図しておられたと思います。その最初の段階で、主は三人の弟子たちだけを連れて、マタイとマルコによると、最初の受難予告から「六日の後」「高い山に登られ」ました。ルカによると、一同は「翌日に」山を下りて、麓で大勢の群集と他の弟子たちとに迎えられていますし、マタイとマルコによると、一行はその後でガリラヤに行っていますから、ご変容の山は、ローマに反抗する暴動の発生したガリラヤでの不測の事態に備えて、当時ローマ軍の砦があったと聞く、ガリラヤ中央部の海抜588mのターボル山ではなかったと思われます。大ヘルモン山の辺りには標高2千メートル級の山が幾つもありますから、そのうちのどの山かは特定できませんが、そういう高い山で一夜を明かしたとしますと、それは始めにも申しましたように、夏の出来事であったと思われます。この世で世界を支配し、栄光の王座につくという現世的メシア像に囚われている弟子たちの心を、メシアの王国も栄光もあの世的なものであることを、体験を通しても段々と悟りへと導くために、主はまず三人の弟子たちと共にその山で一夜を過ごされたのだと思います。

⑥ 人間の日常生活から遠く離れた高い山の上は、シナイ山と同様に、神が顕現するにふさわしい場所です。本日の福音に述べられているように、主は「祈るために」その山に登られたのですが、弟子たちは数時間かけた登山に疲れて「ひどく眠たかった」ようです。主が祈っておられると、突然そのお顔も衣服も輝き始め、そこにモーセとエリヤが栄光に包まれて現れ、主がエルサレムで遂げようとしておられるエクソドスについて話していたそうです。exodosというギリシャ語の言葉は、神の民のエジプト脱出にも使われていて、この場合には約束された国への脱出・出発などを意味していますから、本日の福音にある邦訳の「最期」という言葉以上の、もっと深い意味を持っていたと思います。察するにモーセとエリヤは、メシアがエルサレムで迎えようとしておられる受難死と復活が、長年旧約の神の民が、また全人類が待望して来た悪魔の支配に対する勝利の時、罪と死の闇からの解放の時として歓迎し、主に励ましと感謝の言葉を述べていたのではないでしょうか。

⑦ 話が終わって二人が立ち去ろうとした時、この美しい至福の栄光を永く続かせようと思ったのか、ペトロが急いで「幕屋を三つ建てましょう」などと口走りました。その時、2千メートル級の高山には多い現象ですが、急に雲が皆を包んで、またすぐに過ぎ去りました。そしてその雲の中から「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」という威厳に満ちた声が聞こえて、弟子たちは心に大きな畏れを覚えたようです。雲が通り過ぎた瞬間、そこには既に栄光の変容が消えて普通のお姿に戻っていた主イエスだけしかおられませんでした。神はこのようにして、せめて三人の弟子たちには、主が受難死の後に復活して入る至福の栄光を垣間見せて下さったのだと思います。死の苦しみは、父なる神が備えて待っていて下さる約束の国、天国の素晴らしい栄光への脱出過程なのです。主と内的に結ばれている私たちも皆、父なる神によってその栄光へと召されているのです。感謝と大きな明るい希望の内に、主と共に、死のトンネルを恐れずにあくまでも神に忠実に従って行く心構えを、今からしっかりと整え、堅めていましょう。