2010年3月7日日曜日

説教集C年: 2007年3月11日 (日)、四旬節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 3: 1~8a, 13~15.  Ⅱ. コリント前 10: 1~6, 10~12.  Ⅲ. ルカ福音 13: 1~9.

① 本日の第一朗読は、エジプトを逃れてミディアン人の祭司の許に身を寄せ、その羊の群れを飼っていたモーセが、神の山ホレブ、別名シナイ山の麓で神に召された場面を扱っています。神からエジプトにいるイスラエル人たちの所に派遣されることになったモーセは、もし彼らが先祖の神について「何という名の神か」と尋ねたら、「何と答えるべきでしょうか」と尋ねます。当時のエジプトにはたくさんの神々が崇められていて、神々は皆それぞれの名をもっており、相互に関連付けられていましたから、そういう世界観の中で生まれ育った人たちが、何という名の神から派遣されて来たのかと尋ねるのは、当然予想される質問だと思います。

② 主なる神はそれに答えて、「私はある」という名を教えて下さいました。ヘブライ語では多分一人称単数のehyeh(エイエ)だと思いますが、これを三人称単数に言い換えると、ヤーウェになると聞いています。古代人は、名は単なる呼び名ではなく、そのものの本性を表現すると考えていましたので、神はその古代人の考え方に応じて、この名でご自身の本質を表現なさったのだと思われます。ところで、あらためて考えてみますと、神のこの御名は、全く驚嘆に値することを示していると思います。

③ 私たち人間の理性は、「ある」とか「存在する」という言葉を、ただそこにあるだけで、動くことも成長することも働くこともしないものと考え勝ちですが、実は、聖トマス・アクィナスも強調しているように、存在は最も活発でダイナミックな働きなのです。一切の事物現象は、本来本質的に無なのですが、神の「存在」という働きによってその本性も存在も与えられて存在するようになり、絶えず支えられて動いているのです。神はその大元の「存在」を本質としておられる方で、霊界と物質界の一切のものを、時間も空間も、その他の諸々の枠組みも全て創造なされた永遠の存在であり、現在も過去も未来も全ては神の御手に支えられ生かされてあるのですから、その全能の神から召されて派遣されるモーセは、何者をも恐れる必要がないのです。「存在」そのものであられる神がモーセと共にいて、救いの御業の全てをなそうしておられるのだという意味で、神はその御名を名乗られたのだと思います。私たちも皆、その全能の「存在」神を信奉しているのです。感謝と喜びの内に、誇りをもって生活いたしましょう。

④ 本日の福音は、二つの部分から構成されています。前半では、エルサレムで実際に起こったと思われるローマ軍によるガリラヤ人殺害事件が伝えられたのをきっかけに、主がお語りになった教えが述べられており、後半には、三年間も実を結ばないイチジクについての譬え話が語られています。

⑤ ガリラヤ人殺害の事件が起こったのは、過越祭の時であったと思われます。この祭りの時には、祭司でないユダヤ人たちも、自分の献げる動物を自分でほふることのできる唯一の機会でしたから。毎年の過越祭にはガリラヤ人たちも上京していけにえをほふっていましたが、エルサレムの人口が3倍になる程、多くの巡礼者が首都に集まるこの祭の時には、通常は港町カイザリアに滞在している千人ほどのローマ軍の一部も、ローマ総督と共にエルサレムに滞在して、暴動が発生しないよう警備に当たっていました。ガリラヤは度々反ローマ運動の拠点とされていましたから、そのガリラヤから上京した血気盛んな人々と首都警備のローマ軍との間で、何かの偶発的事件が発生して、一部のガリラヤ人たちが殺害されたのかも知れません。「ピラトがガリラヤ人たちの血を彼らのいけにえに混ぜた」という言葉は、文字通りに解釈する必要はありません。動物がいけにえとして屠られた時と同じ頃に、ガリラヤ人たちが殺害されたことを強調する隠喩か、文学的表現であると考えられるからです。

⑥ 主はこの知らせを聞いて、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。それは、当時の律法学者・ファリサイ派たちが、勧善懲悪の思想を強調するあまり、何か不運な事件や、不慮の災害などの犠牲になって死んだ人があると、その人には隠れた罪があったのではないか、などと考える思想を広めていたからではないかと思われます。現代でも、そしてカトリック者の中にも、時としてこのような推測を口にする人がいますが、主はこのような罪概念や不幸観をはっきりと退けられます。察するに主が考えておられる罪とは、不幸な出来事があって初めて姿を現す、先祖から受け継がれた心の隠れた汚れや呪いのようなものでも、何かの外的償いによって洗い流すことのできる規則違反などのようなものでもなく、どの人間の心の奥にも根強くはびこって生きている暗い闇のような現実的力であり、いわば私たちの生来の人間性「古いアダム」なのではないでしょうか。主は本日の福音のすぐ前の所で、「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」と話しておられます。神から派遣された救い主が人々と共にいる「今の時」は、神の救いの意志が主を通してはっきりと示されている特別の時であり、神が特別に臨在しておられるこの「今の時」の意味を正しく見分けさせない心の暗い覆い、心を盲目にする闇が罪であって、これまでは一度も不運な事件や災害に出会うことなく仕合わせに生活していても、悔い改めて神の救いの意志と働きとを受け入れ、それにしっかりと縋って生きるよう努めないなら、遠からず皆恐ろしい不幸によって滅びてしまうのだ、というのが、主が恐らく真剣なお顔で警告なされたお言葉なのではないでしょうか。

⑦ そして続いて話された後半の譬え話も、その差し迫っている不幸の警告と関係して、悔い改めを勧めるためのものであったと思われます。ぶどう園の主人はイチジクの木がもう実を結ぶ年になっているが、なお3年も忍耐して待ったのに実をつけないのだから、当然「切り倒してしまえ」と命じます。それに対して園丁が、「ご主人様、今年もこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい」と願っている所で話が終わっています。受難死を間近にしておられた主はこの話で、神の働きに結ばれ支えられて実を結ぶよう早く悔い改めなければ、切り倒されてしまう時はもう迫っているのだ、今はエルサレムにとって最後の憐れみの期間なのだ、と強く訴えておられるのではないでしょうか。四旬節に当たり、私たちも主の警告と悔い改めの勧めとを、私たちの時代に対してもなにされている警告と勧めとして真摯に受け止め、生活習慣の改善に努めましょう。