2010年3月28日日曜日

説教集C年: 2007年4月1日 (日)、受難の主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 50: 4~7. Ⅱ. フィリピ 2: 6~11.
     Ⅲ. ルカ福音 23: 1~49.


① 毎年の聖金曜日にはヨハネ受難記が読まれますが、本日の受難の主日ミサには、その他三人の福音記者の受難記が、三年周期の交代で読まれます。そしてミサ聖祭に先立つ主のエルサレム入城を記念する入堂式の始めにも、この三福音書の関連箇所が、同じく三年周期の交代で朗読されます。典礼暦のC年に当たる今年は、いずれもルカ福音書から朗読されますので、入堂式の始めにはルカ福音19章28~40節の主イエスのエルサレム入城の場面が読まれ、ミサ中にはルカ福音20章の受難記が読まれました。

② この20章には、ピラトが主イエスの無罪を3回も主張しています。最初にひと言尋問した後にすぐ、ピラトは祭司長たちと群集に向かって公然と、「私はこの男に何の罪も見出せない」と言っています。しかし、彼らが「この男はガリラヤから始めて、云々」と言い張ったので、ピラトはこの人はガリラヤ人かと尋ねた上で、過越祭に参加するためちょうどエルサレムに来ていたガリラヤの支配者ヘロデ王の下へ送り、自分はイエスに対する裁判を避けようとしました。

③ しかし、イエスがヘロデ王から送り返されてくると、仕方なく再び裁判席に就き、祭司長・議員たちと民衆を呼び集めて、「私はあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪は、この男には何も見つからなかった。ヘロデも同じであった」と言った後、主をそのまま釈放するのではなく、「だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と、主の無罪を信じながらも、ユダヤ人の動きに妥協する言葉を発しました。すると祭司長たちにけしかけられたのか、ユダヤ人たちは一斉に「その男を殺せ」などと叫び、後には「十字架につけろ、十字架につけろ」などと、熱狂的に叫び続けました。主を日ごろから憎んでいた悪の勢力や悪魔たちによって、この時とばかりにけしかけられたのかも知れません。

④ 余談になりのすが、私が神学生であった時、ドイツ人の指導司祭から「悪のミステリー」という言葉を使って、次のような話を聞いたことがあります。神に似せて創られ、神のようになりたいと望んで、神から離れてしまった人間の心の奥には、どこかで日頃自分の慣れ親しんでいる考えや理念などを絶対化してしまうこだわりが根強く居座っているようだ、というのです。神の僕・婢となって謙虚に柔軟な精神で信仰に生きていない心は、固定化した自分の価値観や理念を根底から揺るがす言動を平然となし、しかも社会的犯罪は何一つしない人間に出会うと、途端に相対的人間理性の構築した自分の固定観念を絶対化し、激しい憤りを表明したり恨みを抱いたりするのだそうです。宗教的教義やシステムを基盤にして生活している宗教家たちも、例外ではありません。いやむしろ、固定化した宗教理念に生きている人ほど、その憤りや恨みは激烈であるかもしれません。主イエスを極度に憎んだ祭司長やファリサイ派の人たちは、社会的犯罪人バラバに対してはそれ程の憎悪を感じていなかったと思われます。

⑤ ピラトは三度「この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」と言い、鞭で懲らしめるだけで釈放しようとしますが、暴動にまで発展しかねない程の群集の熱狂的要求に負けて、遂に彼らの要求をいれる決定をしてしまいます。法を守り、無罪な人を保護する任にある者は、悪の勢力やそれにそそのかされる民衆の力を軽視せず、悪と妥協しない心の強さを日ごろから養っていなければならないと思います。集中豪雨で川の土手いっぱいに大水が押し寄せて来ている時には、余程気をつけて堤防全体を守り固めなければなりません。一角が崩れただけで、その崩れが忽ち大きく広がり、大洪水にもなるのですから。ピラトはこの守りに失敗してしまいました。現代の私たちも、そのような衝に立たされた時には、気をつけましょう。自分の心の中の欲望や何かの依存症が荒れ狂うような時にも、同様にそれに決して妥協しないという強い決意と、節度の厳守が必要だと思います。甘えを助長し易い現代の風潮に流されずに、日ごろから悪に負けない心の強さと厳しさを鍛えていましょう。

⑥ ところで、ピラトによる主イエスの無罪宣言は、主のご復活とご昇天の後、初代教会の宣教活動の中で重視されていたようです。使徒言行録3章によると、ペトロは神殿に集まってきたユダヤ人たちに向かって大胆に、「あなた方はこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。云々」と彼らの罪を糾弾し、悔い改めて神の赦しを受けるよう勧めています。ペトロは更に、ペトロ前書2章の中でも、何の罪もないのに、罵られても罵り返さず、屠り場に引かれて行く子羊のように、黙々と十字架上の死を受け入れた主イエスのお姿に、イザヤ53章に予言されていた「苦難の僕」の姿を思い出し、「私たちが罪に死んで神との正しい関係に生きるために、キリストは十字架上で私たちの罪をその身に負われたのです。その傷によって、あなた方は癒されたのです。云々」と書き、だから、そのキリストの模範に倣い、「不当な苦しみを受けても、神のことを考えて耐え忍ぶなら、それは神の御心にかないます」などと書いています。

⑦ その主イエスの受難死を、遠い昔の出来事とのみ考えないよう気をつけましょう。この世の歴史においては、それは確かに2千年も前に過ぎ去った出来事ですが、しかし主は、時間空間を越えて現存しておられる天の御父にその受難死を献げて、全被造物の上に罪の赦しと救いの恵みを願い求めたのであり、その意味では、主は今も私たちの間に現存してその受難死を天父に献げ、私たちを愛し、支え、導いておられる牧者なのです。主の御受難を記念して救いの恵みを願い、またその恵みに参与する本日のミサ聖祭において、私たちも、私たち自身の救いのために大きな苦しみを耐え忍び、その受難を神に献げて下さった主の御心を私たちの心として、自分に与えられる病苦や災難、あるいは人からの思わぬ誤解や迷惑などを、主と共に多くの人の救いのために喜んで耐え忍び、神に献げる決意を新たに致しましょう。主と内的に一致し、主と同じ心で生きようとする時、主を通して神から与えられる救いの恵みも、私たちの内に生き生きと働き、私たちを内面から照らし、護り、導いてくれると信じます。