2010年4月1日木曜日

説教集C年: 2007年4月5日 (木)、聖木曜日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 12: 1~8, 11~14. Ⅱ. コリント前 11:
       23~26. Ⅲ. ヨハネ福音 13: 1~15.

① 本日の福音によりますと、主キリストはこの世での最後の晩餐の初めに、突然食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、大きな手ぬぐいを腰にまとわれて、盥 (たらい) の水を運んで来て弟子たちの足を洗うという、卑しい奴隷がしているような行為を始められたので、弟子たちは驚いたと思います。主は弟子たちの足を洗い終わった後に、「私があなた方にしたとおりに、あなた方もするようにと模範を示したのである」と説明しておられるので、今宵は主が示して下さったこの模範について、少し考えて見ましょう。

② 福音にはまず、主がいよいよこの世から天の御父の元へ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを極限まで愛し抜かれたとあります。それは激しく燃え上がる人間的情熱的な愛で愛されたのではなく、むしろご自分を徹底的に与え尽くすという深い静かな神の愛で、極限まで愛されたのだと思います。おそらくこの時の主のお顔もお姿も、優しく穏やかな愛の威厳に美しく輝いていたのではないでしょうか。主はこの後に続く最後の晩餐に、ご自身のお体も御血も、パンとぶどう酒の中に込めて弟子たちに与え、彼らに食べさせ飲ませることによって、ご自身の御命も精神も霊的に完全に彼ら一人一人に与え尽くし、主があの世に移った後にもこの儀式を続けるようにとお命じになりました。復活後のご昇天の時には、「私は世の終わりまであなた方と共にいる」とおっしゃって、今もミサ聖祭の中で聖別されるパンとぶどう酒の秘跡により、私たち全人類に伴っておられることを宣言しておられます。神の愛はこのように、ご自身の持っているものを余す所なく相手に与え尽くし、相手を苦しめている重荷も共に引き受け担おうとする、実践的奉仕の内にあるのではないでしょうか。そのためには、これまで衣のように主が身にまとっておられた師匠としての外的姿も脱ぎ捨て、奴隷の姿になって働くことも厭わないのが、神の愛だと思います。

③ 主は弟子たちの足を洗うことにより、各人の心の奥に巣くう自分中心の罪の穢れを、ご自身の受難死という水で洗い清めようとなされたのだと思いますが、ペトロの所に来ると、事柄の目に見える側面にだけ囚われていたペトロは恐縮し、「私の足など決して洗わないで下さい」と言いました。主はこれに対して、「私のしていることは、後で分かるようになる」と答え、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」と、神秘的なお言葉を話されました。驚いたペトロは、「主よ、足だけではなく、手も頭も」と願いましたが、主は「足だけ洗えば、既に全身清い」とおっしゃったようです。他人の足を洗うという行為は、自分に死んで相手に奉仕する精神の表現であると思います。主は、弟子たちの間に、そして新しい神の民の内に、自分に死んで相互に奉仕し合う愛の精神を広めるために、弟子たちの足を洗うという模範をお示しになったのではないでしょうか。

④ 洗礼者ヨハネがまだ洗礼を授けていた頃、主も別の所で多くの人に洗礼を授けていましたから、主の弟子たちはその時に受洗したと思いますが、しかし、洗礼を受けた後にも自分中心の精神で考えたり行動したりすると、心の奥に蓄積されるその穢れは、足の裏まで汚すのではないでしょうか。肉体的にも足の裏は心の動きと深く関連しているようで、心にストレスが溜まると、足の裏に汗が放出され、そこに黴菌 (かびきん) がたかって臭いを出すようにもなります。弟子たちが互いに相手の欠点や罪科を自分の犠牲や忍苦の水によって洗い流し、こうして日々自分に死んで奉仕する神の愛の実践により、一層深くキリストの与える新しい命に根ざして生きるように、そして神の奉仕的な愛の実を豊かに結ぶようにというのが、弟子たちの足を洗った時の主の切願だったのかも知れません。

⑤ しかし、後でご自身を裏切ろうとしていたユダの足も洗われた主は、「みんなが清いわけではない」という悲しいお言葉も漏(も)らされました。主の財布を預かって、一行の生活のため世間に出て買い物をすることの多かったユダは、次第に世間の現世主義の空気に心の中まで汚れて来ていたようです。主が幾度もご自身の受難死について予告したり、律法学者・ファリサイ派と神殿の大祭司たちとが、主を捕らえて殺そうとしている動きを幾度も見聞きしたりしているうちに、ユダは心の中で、ユダヤでの神の国建設の夢は絶望的と考え始めたのではないでしょうか。もしも主がユダヤ教の指導者たちに捕らえられ処刑されるなら、主に積極的に協力した弟子たちも罪を着せられて探索され、処刑されるに到るであろう。ユダヤ教指導者たちからの責めを逃れたいなら、主のすぐおそばにいる弟子としての地位を逆に利用して、主を捕らえようと躍起になっている彼らに情報を知らせ、主の逮捕に協力するのが良いだろう。どうせ神の国の実現は絶望的になったのだから、などとユダは考えて、すでに大祭司側の人々と関係を深めていたのではないでしょうか。

⑥ 主は、ユダの心や行動のそのような動きを全て察知しておられたと思います。しかし、そのユダにも極みまでご自身を与え尽くす愛を示していれば、裏切った後のユダの心にも、きっと後悔の念が起こる時が来るであろう。その時でも遅くない。もし主を否認した後のペトロのように、大いに泣いて悔い改めるならば赦してあげようという、最大限の大らかな愛をもって、主はユダの足を洗ったのではないでしょうか。主が最後の晩餐の席で、ユダにパンを甘酸っぱい汁に浸してお与えになったのも、当時のユダヤ人の慣習では、格別の愛のしるしでした。他の弟子たちの多くは、主がユダにそのような特別の愛のしるしを示されたので、主が彼に「しようと思っていることを、今すぐしなさい」と命じられた時にも、ユダが裏切ろうしていたことは全く知らずにいたと思います。主の絶大な愛が、ユダをも含めその場にいた全ての人を覆い包んで、その仕合わせを天の御父に願い求めていたのですから。主は今宵、ここに集まっている私たちをも同じ絶大な愛をもって覆い包み、私たちの真の仕合わせのために、ご自身の全てを与え尽くして、天の御父に祈っていて下さるのではないでしょうか。私たちも、その主の愛とご期待に応えて、互いに罪科を赦し合い、互いの重荷を共に担い合って、主の奉仕的愛に生きる決心をあらたに主に献げ、主と共に天の御父に、これまでの怠りの罪の赦しと助けの恵みとを願い求めましょう。