2010年4月4日日曜日

説教集C年: 2007年4月8日 (日)、復活の主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 10: 34a, 37~43. Ⅱ. コロサイ 3: 1~4.
     Ⅲ. ヨハネ福音 20: 1~9.


① 本日の第一朗読は、使徒ペトロがカイザリアにいるローマ軍の百人隊長コルネリオの家で話した説教の引用ですが、そこでは、律法に従って割礼を受け、ユダヤ人にならなければ救いの恵みを受けないなどとは言われていません。ペトロは、神がナザレの主イエスを介して提供しておられる救いの業について簡潔に説明した後、自分たちはこのことについて証しするようにと、その主イエスから命じられていると述べ、さらに「預言者たちも皆、イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられると証ししています」と付け加えています。旧約時代からの数々の厳しい伝統的法規を遵守しなくても、救いの恵みを豊かに受ける新しい道が、主イエスの受難死と復活によって開かれ、全人類に提供されたのです。今日は、そのことを喜び神に感謝する祝日だと思います。

② ローマ皇帝アウグストゥスがシルクロード貿易を積極的に支援し、東洋と西洋との国際貿易が盛んになると、オリエント・地中海世界の社会が一層豊かになったばかりでなく、人口移動も盛んになって社会が際限なく多様化し始め、それまで各地の共同体や民族的宗教の根幹となっていた伝統的慣習も価値観も、次第に時代遅れとみなされるようになってしまいました。このような状況は、2千年後の現代においても、国際的にもっと大規模な形で進行しつつあります。「時が満ちて」社会が大きく流動化し、こういう状況になった時、神はかねてから約束しておられた救い主をこの世にお遣わしになり、全人類のために新しい救いの道、新しい信仰生活の道を開いて下さったのです。それはもう、何か不動の掟や規則に従って、一律に型通りの生き方を自力で順守する生き方の道ではなく、むしろもっと自由に主キリストの命に内面から生かされ導かれながら生きる道、主が生前生きておられたように、何よりも神の愛、神の御旨に心の眼を向けつつ、実践的に奉仕の愛に生きる信仰生活の道と言ってよいと思います。

③ 神の愛、神の御旨は、ちょうど風のようにその時その時、その場その場の具体的状況や必要に応じて多様な現れ方を致します。私たちが自分中心の考えや欲求を退け、他者を差別扱いにするわが党主義も捨てて、ひたすら神の導きに従って生きようと努める時、神による救いの恵みが力強く私たちの内に働き、極度に多様化しつつある人類諸民族も、神において互いに相手を愛し赦しあって、平和に共存し、相互に助け合うことができるのではないでしょうか。現代のように社会が極度に多様化している時代には、各人が、また各国・各民族の代表者たちが、いくら心を開いて理性的に話し合ってみても、なかなか恒久的平和協力の体制を打ち立てることができませんが、主キリストのように己を無にして、神の超越的権威に従おう、神の奉仕的愛に生きようとする時、そこに神の恵みの力が働き、新しい道が開けてくるのだと思います。

④ 本日の第二朗読には、「あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」という、真に神秘的で理解し難い言葉が読まれます。いったいこの言葉は、どう受け止めたら良いのでしょうか。御独り子をメシアとなして、罪と死の支配下にあるこの世へお遣わしになった、天の御父の絶大な愛のご計画を中心に据えて考察してみましょう。

⑤ 私たち人間の理性は、通常「罪」と聞けば、他者の名誉や当然の権利を損傷したり、皆で守るべき秩序を乱したりして、他者に迷惑を及ぼすことと考え、「死」と聞けば、命を喪失することと考え勝ちです。いずれもこの世の具体的経験からの考えや受け止め方ですが、あの世の神は、罪や死について、それとは大きく異なる考えをもっておられるのではないでしょうか。罪や死によって傷ついたり迷惑したり喪失したりして不幸になるのはこの世の被造物ですが、それらは、言わば罪と死によって齎された外的結果であって、私たち人間は、数々の目撃体験から罪と死が齎す悲惨な結果については知っていても、宗教的な罪そのもの、死そのものについては、まだほとんど何も知らずに深い闇の中に暮らしているのではないでしょうか。命を目で見ることができないように、死そのものも目でみることはできません。私たちが見聞きしている現象は、神が問題にしておられる宗教的罪と死の本質ではありません。神は、神に背を向けた人間たちが、その無知と傲慢の内にますます深く堕落の道に落ち込んで行くのを憐れみ、限りない大きな愛の御心をもって救おうとなさいます。

⑥ しかし神は、ご自身に似せてお創りになった人間の自由を少しも束縛せずに、罪と死の霊的闇の支配下にいる人の心に神の愛の火を点火し、その火によって罪と死の闇を追い払い、滅ぼし尽くそうとなさいます。そのため、この苦しみの世に生きる人間となして、その御独り子を派遣なさいました。聖書の啓示によると、この世の生きとし生けるもの全ては、罪に穢れたこの世に生れ落ちた時から、目に見えず無自覚であっても、罪と死の恐ろしい悪魔的力にまとわりつかれているのです。この世の私たちは皆死に向かって歩んでいるのであり、たとい人間の科学がどれ程発達しても、誰一人として死を免れることはできません。これは、人間が神に背を向けて悪魔の勧めに従う生き方を選択したことによって生じた、人間性倒錯の結果であり、罪と死の力が支配するこの世が続く限り、世の終りまで次々と被造物を苦しめて行くことでしょう。本日の朗読に「あなた方は死んだのであって」とあるのは、皆死に向かって生きていることを指していると思います。

⑦ しかし、使徒パウロがコリント後書5章の終りに書いているように、「神は罪と関わりのない方 (すなわちメシア) を私たちのために罪となさって」、これに全ての責任を背負わせ、恐ろしい苦しみの内に死の国のどん底にまで追いやられたのです。神の御独り子メシアは、罪と死の悪魔的力を打ち砕くため、火のように強い愛の精神、悪と戦う精神をもってご自身の命をその勢力に委ね、ちょうどヨナが大きな魚に呑み込まれたようにして、死に呑み込まれて地獄にまで降りて行き、全能の神の力によって罪と死の奥底の力を打ち破りつつ、そこから死ぬことのない栄光の愛の命に復活して、天の玉座にまで御昇りになったのだと思います。罪と死の力に対する神の愛のこの勝利を堅く信じて、その神の愛の内に生きるように努める人は、その信仰と愛の度合いに応じて主キリストの復活の恵みに参与し、まだ罪と死の闇が支配しているこの世に生活していても、その闇に打ち勝つ主の力に内面から生かされ支えられつつ、喜びの内に生き且つ働く生き方を体験できます。ですから、「過ぎ行く地上のものに心を引かれないようにしていなさい」というのが、本日の第二朗読の勧めだと思います。私たちの本当の愛の命は、キリストと共に神の内に隠されており、すでにキリストと共に復活させられているのです。主キリストのように、一度は死の力に呑み込まれても、そこから天の栄光へと昇って行く道は開かれているのです。それはしかし、死を経て昇ってゆく道であることを、心に銘記していましょう。

⑧ 現代のように全てが極度に流動化し多様化しつつある大きな過渡期には、各種の対立、あるいは経済的格差や詐欺・犯罪などのために極度に苦しんでいる人、不安におびえている人が激増していると思われます。その数はこれからも増え続けることでしょう。下の世界から人間理性によって築き上げられた政治的理念や制度からでは、あまりにも多いそれらの問題の解決は期待できず、現代社会は混迷の度をますます深めて行くと思われるからです。私たち信仰に生きる者たちは、主キリストの復活の力に支えられて、宇宙万物の創り主・持ち主であられる天の御父の御旨に心を留めつつ生きることにより、また苦しむ人たちのため敬虔に執り成しの祈りをなすことにより、罪と死の力を打ち砕く復活の主キリストの力強い恵みを、その人たちの上に呼び降すことができるのではないでしょうか。それが、現代における一つの賢明な世渡りの道であると信じます。神はそのような人たちを捜し求めておられ、その人たちを特別に守り導いて、全ての悪に打ち勝たせて下さるからです。多くの人が動揺し混迷の度を深めつつある現代、せめて私たちは、永遠の命に復活して今も共にいて下さる主において、そのような仕合せな生き方を世に証しする恵みを願いながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。