2010年4月3日土曜日

説教集C年: 2007年4月7日 (土)、聖土曜日(三ケ日)

朗読聖書: 第二部の「ことばの典礼」では旧約聖書からの七つの
   朗読があるが、その記述は省き、「感謝の典礼」の朗読だ
   けにする。Ⅰ. ローマ 6: 3~11. Ⅱ. ルカ福音 24: 1~12.


① 今宵の典礼の中では、光と水が大きな意味を持っていますが、聖書には「光」という言葉が、創世記の初めから非常に多く登場しています。天地創造の時の「光あれ」を初めとして、「光と闇を分ける」だの、「命の光を輝かせて下さる」だの、「み顔の光を僕の上に」などと、旧約聖書には多く読まれますが、新約聖書にも「私は世の光である」「光の子として歩みなさい」「神は光であり、神には闇が全くない」「兄弟を愛する人はいつも光の中にいる」などと、数多く読まれます。それらを通覧してまず目を引くのは、光と命との密接なつながりであります。人は闇から生まれることによって光を見るのですが、ヨブ記や詩篇などには、神によって死から解放された病人を喜ばせるのも命の光であるとされ、聖書の他の所では、光の源であられる神から派遣された救い主は世の光とされていて、信仰をもってその救い主を受け入れた人々も光の子らと呼ばれ、世にその光を輝かすよう求められています。

② 今宵の式で、私たちは「キリストの光」と唱えながら、私たちが心に戴いている神の子キリストの光の恵みを、改めて心に想起しましたが、感謝と喜びの内にこの恵みの光を日々の生活を通して実践的に輝かせ、激動する今の世の不安な闇の中で希望を見出せずにいる人々の上にも、光の恵みが与えられるよう願い求めましょう。主キリストの成し遂げられた救いの御業を遠い過去の出来事としてのみ考えないよう気をつけましょう。この世の歴史の上では、それは確かに2千年前の出来事ですが、しかし、時間空間を超えて現存しておられる絶対の存在者であられる神に献げられ、神によって受けいれられたその御業は、時間空間を超えて世の初めから終りまでのあらゆる被造物にとり、「今」となって現存している超自然的現実なのです。ただ今ここで朗読されたローマ書6章に「あなた方も、自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対しては生きているのだと考えなさい」とある言葉も、同様に超自然的現実についての話です。復活なされた主キリストと内的に一致する度合いに応じて、私たちはすでに罪に対しては死んだ者、ただひたすら神目指して生きる者となっているのだ、という意味だと思います。使徒パウロが実感していたと思われる、私たちの存在のこの霊的現実を、私たちも堅く信じつつ、感謝と喜びの内に生きるよう心がけましょう。

③ パウロはローマ書9章の後半に、神と人との関係を焼き物師と粘土との関係に譬えて語っていますが、私たち被造物は、主キリストの超自然的救いの御業に対しては、全く粘土のような素材・道具としての価値しかなく、主は今も私たちの中で、私たちを使って私たちを救う御業をなしておられるのだと信じます。それで私は、苦しむ時や死ぬ時には、主が私の中で共に苦しみ、共に死んで、その苦しみや死を天の御父に献げて下さるのだから、その主にしっかりと捉まっていよう、主と一致してその苦しみを天の御父にお献げしようと考えることにしていますが、「キリストの光」と唱える時にも、復活なされた主が、罪と死の闇を駆逐するその霊的光を、私の心を蝋燭のようにして人々の心に点火して下さるように、そしてまだその光を知らずにいる多くの人たちを照らし導いて下さるようにと祈ります。目に見えなくても私たちのすぐそばに現存しておられる、その主に対する信仰・感謝・信頼の心を新たにしながら、これから行われる洗礼の約束の更新と今宵のミサ聖祭とを、心を込めて致しましょう。

④ 次に本日の典礼に度々登場する「水」という言葉について調べてみますと、聖書には、水という言葉は火という言葉と共に、「光」よりも遥かに多く読まれます。しかも、聖書では水も火も、単に汚れを清めるだけではなく、悪を滅ぼし尽くす手段、そして新しい命を与え育てる手段としての意味も持っているようです。先程ここで朗読された旧約聖書にもそのように描かれていますが、イスラエルの民は水と火を通り、それらに守られてエジプトの奴隷状態から解放され、神の恵みと自由の支配する約束の地へと導かれたのでした。悪の勢力から解放され、新しい神の恵みが働く国で生きるよう導かれたのです。そしてそれは、キリストの命に参与し神の愛に生きるための、洗礼のシンボルされています。主はニコデモに「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と話しておられますが、これも霊魂が洗礼によって新たに生まれることを意味しています。ここでは「水と霊」と表現されていますが、この「霊」とは、神の愛の息吹、神の愛の火、すなわち聖霊を指しています。私たちはこの説教の後で、火をともした蝋燭を手に持ちながら洗礼の約束を更新しますが、その火は洗礼によって神から受けた光の恵みを指しており、同時に神の聖霊、神の愛の火を指していると思います。目には見えなくても、私たちはこの火をいつも心の中にもっているのです。事ある毎に心の眼を自分の中にいて下さるその神の霊に向けながら、その霊の力に支えられて生きるように努めましょう。

⑤ ところで、人類の罪の贖いのため十字架上での死を遂げ、墓に葬られた後、死ぬことのないあの世の永遠の命に復活するまでの間、主キリストのご霊魂はその御遺体と共に留まっていたのでしょうか。教会は、初代の使徒時代からそのようには考えていません。既に使徒ペトロは、ペトロ前書3章に「キリストは肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして霊においてキリストは、囚われていた霊たちの所へ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちです。云々」などと書いています。箱舟に乗って救われたノアの一家8人以外の人々、ノアを介して伝えられた神の言葉や警告を軽んじて、この世の幸せだけを追い求めていた人々は、ほとんど大多数の人類の象りだと思います。この世において洗礼の恵みに浴することなく、あるいは洗礼の約束に忠実に生きずに、あの世に移った霊魂たちであっても、心の奥で神の愛の命に憧れ、神に背を向けていないならば、神の憐れみにより、キリストの贖いの恵みを受けて救われる時があるのではないでしょうか。

⑥ 初代教会の信仰内容を簡潔にまとめている3世紀から4世紀にかけての諸教会の信条を調べてみますと、初期の頃の一部の教会の信条に「死者のもとに下り」という言葉が抜けているものもありますが、東方教会の使徒信経をはじめ、西方教会の使徒信経にも、主キリストが「十字架につけられて死に、葬られて死者のもとに下り、三日目に復活し」という言葉が入っており、これがその後の時代には定着しています。ラテン語でad inferos (死者のもとに) が、ad inferna (死者の所に) となっているものも多く、以前の日本語訳使徒信経にはそれが「古聖所に」と訳されていました。最近の日本語訳には「死者のもとに」となっているものも出回っています。いずれにしても、私たちの人生はこの世だけで終わるものではなく、死後にも継続されて永遠に神へと上昇して行くものであることをしっかりと心に銘記し、主キリストの受難死と復活によって将来の栄光への道が開かれたことを感謝しつつ、今宵のミサ聖祭を献げましょう。