2010年4月25日日曜日

説教集C年: 2007年4月29日 (日)、復活第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 13: 14, 43~52. Ⅱ. 黙示 7: 9, 14b~17.
     Ⅲ. ヨハネ福音 10: 27~30.


① ご存じのように、復活節の第四主日は昔から「善き牧者の日」と呼ばれていますが、第二ヴァチカン公会議の後半頃から「世界召命祈願の日」ともされて、善き牧者・主キリストの生き方を体現するような司祭・修道者が一人でも多くなるよう、この日に全教会と心を合わせて祈ることが勧められています。私たちは毎月の第一月曜日に司祭・修道者の召命祈願の意向でミサ聖祭を献げており、毎週土曜日の晩の祈りにも、同じ意向で一つの祈りを唱えています。今日のこのミサ聖祭も、その意向でお献げ致します。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第一朗読は、パウロとバルナバの最初の伝道旅行からの話ですが、それまではユダヤ人キリスト者の多いシリアのアンティオキア教会でサウロと呼ばれていたのに、この伝道旅行の時からは「パウロ」という名前を使っています。「サウロ」は、恐らくサウル王にあやかってつけられたユダヤ系の名前です。「パウロ」は、ラテン語で小さい者を意味するPaulusで、父親の時からローマ市民権を取得していたようですから、ユダヤ人社会以外の所ではローマ系のこの名前を使うよう、父親からつけて戴いた名前であると思われます。パウロとバルナバは、アンティオキア教会の預言者や教師たちに与えられた聖霊の言葉によって、異邦人世界へ伝道に派遣されたのですから、パウロはこの時からローマ人の名前を使い始めたのだと思います。

③ この宣教活動は、二人が自分で思い立って始めた事業ではなく、神の言葉によって教会から派遣され、始めた事業であります。ですから、二人はいつも神の御旨、神の導きを念頭に置きながら、いわば神の生きている道具のようになって働こう、と努めていたと思われます。ちょうど人類救済のために天の御父から派遣された主イエスが、いつも「父の御旨」を念頭に置いて働いておられたように。心にこの精神が燃えている人の中では、聖霊も生き生きと働いて下さいます。本日の朗読箇所にも、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」という言葉が読まれます。しかし、目に見えない神の御旨や聖霊の導きへの従順を根幹として信仰生活を営んでいないユダヤ人たちは、先祖たちから伝えられた聖書についての自分たちの伝統的解釈を最高のものとし、それに基づくユダヤ人社会の伝統護持を念頭に置いていたので、その伝統を乱すものとして主イエスに対しても厳しかったですが、パウロとバルナバをも迫害し始めました。

④ 神からの啓示である聖書は、私たちの人生を各種の危険や誤謬から護り導くための、いわば道路沿いの案内板や柵のように貴重なものですが、そこが人生の目的地なのではなく、聖書はそれに守られ導かれて神の待っておられる所へと進み、牧者であられる神の御声を正しく聞き分けて、神の愛に生きるようになるための手段であることを忘れてはなりません。最高のものは、神の御声に聞き従い神の愛に生きることです。私たちも過ぎ行くこの世の動きや組織体制などに囚われ過ぎて、本末を転倒しないよう気をつけましょう。世の終りまで私たちと共にいて下さるとおっしゃった、主キリストの現存に対する信仰を新たにしながら、日々その御声に心の耳を傾け、それに従うよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音は、ヨハネ福音書10章の後半部分からの短い引用ですが、10章の前半部分には、「私は良い牧者である」という主の宣言を含む、良い牧者とそれに従う羊たちについてのかなり詳しい話が載っています。それを聞いたユダヤ人の間では、主に聞き従おうとする人々と、主を悪魔憑きとして非難する人々とに分かれる分裂が生じ、激しい議論が交わされたようです。主の御受難の三ヶ月ほど前のある冬の日のことでしょうか、ヨハネはそれを「神殿奉献記念祭」の時と書いていますから、ユダヤ人の太陰暦で12月25日に当たる日だと思いますが、主が神殿のソロモンの回廊を歩いておられると、主に批判的なユダヤ人たちが主を取り囲み、「いつまで私たちの心をいらいらさせるのか。もしメシアなら、はっきりそう言ってもらいたい」と迫りました。

⑥ それに対する主のご返答の一部が、本日の短い福音であります。主は彼らに、「あなた方が信じないのは、私の羊でないからである」とおっしゃって、「私の羊は私の声を聞き分ける」の言葉で始まる、この話をなさったのです。それは裏を返せば、人間の作り上げた理念や主義・主張を中心にして、主の話されたお言葉を理解しよう、合理的に解釈しようと努力しても無駄で、不可解なものが次々と生じて来て心をいら立たせることになることを、示していると思います。しかし、神に背を向けて堕落した人間の、そういう自分の理解中心、この世の生活中心の生き方に一度全く死んで、神がお遣わしになった預言者や人の子メシアを受け入れ、まだよく理解できなくてもその教えに従って生きようと努めるならば、神に向かって大きく開かれたその心の中にあの世の光が差し込んで明るく照らし、それまでいくら考えても不可解であったことが、次々と問題なく解消して行くのです。大切なのは、まずメシアを神よりの人として受け入れ信じることと、そのメシアの教えに従って生活しようとする謙虚な信仰心の実践です。そうすれば、神よりの恵みの光が心の闇を追い出して、神の声を聞き分けることができるようになり、本当の真実が明らかになって行くでしょうというのが、主がユダヤ人たちに言おうとなされことだと思います。

⑦ ところで、本日の福音の29節は、古い写本が二つの相異なるタイプに分かれていて、その一つは、「私に彼らを下さった私の父は、全てのものより偉大である」となっており、彼ら(すなわち羊たち)を主にお与えになった天の父の力強さを強調していて、それに続く「誰も父の手から奪うことはできない」という言葉にスムーズに繋がり、分かり易くもあります。もう一つの写本は「私の父が私に下さったものは、全てのものより偉大である」という、天の父が守って下さる羊たちの偉大さを強調していて、本日ここで朗度されたプロテスタントとカトリックの共同訳も、この写本の方を聖書に採り入れています。この写本を疑問視する聖書学者もいるようですが、私はこれでよいのではないかと考えます。本日の短い福音を構成しているギリシャ語の九つの短文を吟味しますと、その書かれている順で1, 3, 5, 7番目の短文は、全て羊たちが主語ですし、それ以外の短文は、「私は」、「誰も」、「私と父とは」などが主語となっていて、一応主語が交互に替わる綺麗な整合性が保たれているように見えますから。

⑧ 主が批判的なユダヤ人たちの質問に答えて話されたこの短い話に登場する表現も動詞も、全てヨハネ福音書10章の前半部分に登場していますが、ただ前半部分では「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」などと表現しているのに対して、本日の福音の中では「私は彼らに永遠の命を与える」という風に、「永遠の」という形容詞が登場しているのが、ちょっと注目を引きます。なお、日本語の訳文で「命を受ける」「永遠の命を与える」「命を捨てる」などと、「命」という一つの言葉で表現されているものは、聖書のギリシャ語原文では「ゾーエー」と「プシュケー」という二つの言葉に使い分けられており、あの世の永遠に続く命や、神の恵みの命を指す時には「ゾーエー」、この世のやがて死ぬべき肉体的命や、人間中心の理知的精神や心などを意味している時には「プシュケー」という言葉を使っています。ヘブライ語でも同様の区別があって、「ゾーエー」は「ハイ」、「プシュケー」は「ネフェシュ」と言うそうですから、主も良い牧者の話をなされた時、この二つの言葉を正しく使い分けて話されたのだと思われます。良い牧者キリストは、私たちを贖うために、この世の人生のための命「プシュケー」は犠牲になさいますが、それは私たちにあの世の永遠の命「ゾーエー」を与えるため、しかも豊かに与えるためであって、ご自身が「ゾーエー」を捨てるなどとは一度も話しておられません。主に従う私たちも、既にこの世で生活する時から自我中心・自分の考え中心の「プシュケー」に死んで、洗礼によって神から戴いた神中心の愛の命「ゾーエー」に生きるよう努めましょう。それが、私たちの内的牧者であられる主が私たちに切望しておられることであると思います。