2010年3月21日日曜日

説教集C年: 2007年3月25日 (日)、四旬節第5主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 43: 16~21. Ⅱ. フィリピ 3: 8~14. 
     Ⅲ. ヨハネ福音 8: 1~11.


① 本日の第一朗読の出典であるイザヤ書の42章から44章にかけては、神がイスラエルの民を愛して贖い、助けることについて長い話を語っておられますが、本日の朗読箇所はその小さな一部分であります。その中に読まれる、「見よ、私は新しいことを行う」「私はこの民を私のために造った。彼らは、私の栄誉を語らねばならない」という言葉は、大切だと思います。太祖アブラハムの時以来、神の声に従って歩むよう召された神の民は、その歴史的歩みや体験を通して、他の諸国民に神による力強い救いの業を示すと共に、神に感謝と讃美を献げつつ、諸国民をも真の神信仰と神による祝福へと、招き入れる道を準備する使命を、神から与えられていたのではないでしょうか。その神は今、捕囚の身になっている神の民のため新しい救いの御業を為そうとしておられのです。ですから今は、遠い「昔のことを思いめぐらさず」に、これから訪れる出来事や目前の現実の中に神の愛の働きを識別して、それを語り伝えるようにと、イザヤは勧めたのだと思います。

② 本日の第二朗読では、旧約のその神の民の伝統を受け継いで生まれ育ち、人となられた神の御言葉に出会って、さらに高い新約の神信仰へと高められた使徒パウロが、自分のこの新しい体験に基づいて、「律法から生じる自分の (業による) 義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」について語っています。彼は、主キリストを体験的に知ることの素晴らしさに感激しながら、「私はキリストの故に全てを失いましたが、それらを塵あくたと見做しています」と語り、また「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかってその死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とも述べています。

③ 同じ主キリストを信じ、その信仰に基づく新約の義にも浴している私たちは、心の眼がまだ罪の闇に覆われているからなのか、使徒パウロのこれ程大きな感激や意欲からは遠く離れているように覚えます。しかし、私たちも神の霊の働きによっていつかは聖なる存在に高められ、使徒パウロの戴いた大きな喜びに到達するように、そして天の国で神の栄光の内に永遠に輝くよう召されているのです。神から啓示されたこの素晴らしい将来像を心の内に新たにしながら、もう残り2週間となった四旬節の祈りと献げに励みましょう。

④ 本日の福音にある姦通した女についての話は、そこに使われている言い方や語句の多くがヨハネ的ではなく、罪人に温かい理解を示しているルカ福音書の言い方や語句にそっくりであり、西方教会で作成された福音書の写本にのみ読まれる話なので、ルカが伝えている話が、間違ってヨハネ福音書に入れられてしまったのではないかと言われています。事実、この話をルカ福音書21章の最後に、主の御受難直前頃の出来事として伝えている5世紀以降の写本もあり、ルカ福音書またはヨハネ福音書の「付録」として伝えている写本もあるのだそうです。しかし、この話それ自体は非常に古く、2世紀のパピアスも知っていた可能性があり、3世紀初めにシリアで書かれた「ディダスカリア」という教会規則書にも引用されています。察するに、元もとルカ福音書に入っていた話を、規則厳守を重んずるユダヤ・キリスト教信者の多かったオリエント諸地方の教会では、あまりにも掟の厳しさや規則厳守の良風を損なう恐れのある話として福音書から削除され、それが西方教会の写本に拾われて、後世に伝えられた実際の出来事だったのではないでしょうか。

⑤ キリスト時代のユダヤ教が賞賛していた旧約の偉人の一人に、アーロンの孫ピネハスという人がいます。民数記25章によると、異教徒の女に誘われて異教の神を拝もうとする者たちが出た時、ピネハスは槍でこの女を突き殺し、神罰であった疫病から民衆を救ったので、彼とその子孫はその後ずーっと祭司の職に就けられたと記されています。ピネハスのこの大胆な処罰の行動が神の掟に忠実な信仰者たちの模範とされ、キリスト時代にも賞賛されていたので、本日の福音に登場する律法学者・ファリサイ派の人たちは、伝統的社会道徳が乱れつつあった当時のユダヤ社会を、神罰を招く恐れのある姦通の罪から浄化するために、罪人たちに優しいイエスが、律法の規定に従って行動するか否かを試そうとして、姦通の現場で捕えられた女を連れて来たのではないでしょうか。

⑥ レビ記20:10によると、姦通した者は男も女も殺すように規定されていますが、女だけ連れて来たのは、男を取り逃がした可能性もありますが、何かあらかじめ男と仕組んで、わざと取り逃がしたことも考えられます。以前にも話したように、当時はまだユダヤ人嫌いのセヤーヌスがローマでティベリウス皇帝の政治を代行していて、ユダヤ人には死刑を宣告したり執行したりする権限が認められていませんでしたから、もしもイエスがこの女に律法に従って石殺しを命ずるなら、ローマ帝国の禁令を犯したかどで、イエスをローマ総督に訴えることができますし、逆にこの女を釈放するなら、律法違反として騒ぎ立てることもできます。どちらにしても、彼らはイエスを重大な規定違反者として訴えることができるので、その口実を見つけようと、企んでいたのだと思います。

⑦ すると主イエスは、かがみこんで指で地面に何かを書き始めました。何を書き始められたのでしょうか。それは分かりませんが、身をかがめて地面に書くという仕草で時間を稼ぎ、訴える人々に気を静めてゆっくりと考えさせるため、あるいは人を裁くことの拒否を姿勢で示すため、あるいはローマ人の法廷で裁判官が判決を宣告する前に、判決文の覚書を書くのに倣い、地面にご自身の腹案を書いてから答えようとなされたのでしょうか。いずれにしろ、主が黙って地面に何かを書き始めると、彼らがしっこく問い続けたので、主は身を起こして「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と答え、また身をかがめて地面に書き続けられました。すると主を両天秤の企みで落とし入れようと取り囲んでいた人々は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、主お一人とその女だけになってしまいました。主を訴える口実を得ようとした彼らの企みはこうして完全に失敗し、彼ら自身が諦めて逃げていった形になりました。

⑧ 最後に主は身を起こして、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」と言われ、女が「主よ、誰も」と答えると、主は「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」と言われました。その救い主と内的に結ばれて、一人でも多くの人を神の憐れみによる救いへと導こうとしている私たちも、主が示されたこの温かい思いやりの模範に倣うよう心がけましょう。

⑨ 罪のない市民に対する無差別の大量殺人や、老人たちを騙して大金を奪い取る犯罪や、通り魔殺人、子供の誘拐、子供の虐待などなど、今の社会には、ひと昔前には考えられなかった程の恐ろしい事件が多発していますが、何かの法や伝統的価値観ばかりを中心にして現実の人間社会を眺めていると、それらに対して一々憤慨し怒り続けることになり、知らないうちに健康を害し、やがて憤死してしまうかも知れません。それは、神の御旨ではないと思います。昔、ある高齢の人に長生きの秘訣を尋ねたら、「どんなに癪にさわることがあっても、腹を立てないこと」という返事だったという話を読んだことがあります。私たちも、毎日のように酷い話や情報を耳にしても腹を立てずに、むしろ犠牲になった人々のあの世での救いと仕合わせのため、また人を不幸のどん底に突き落とした人々の改心と救いのため、神に祈るように心がけましょう。それが、小さいながらも救い主の御心を今の時代に生かし、日々神による救いの恵みを呼び下す、どなたにもできる生き方だと思います。