2010年1月31日日曜日

説教集C年: 2007年1月28日、第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 1: 4~5, 17~19. Ⅱ. コリント前 12: 31~ 13: 13.  Ⅲ. ルカ福音 4: 21~30.

① 本日の第一朗読は、紀元前7世紀の後半にエレミヤを預言者として召し出された時の、神のお言葉を伝えています。旧約の預言者の中には、エリヤ預言者のように積極性と豪胆さに溢れていたように見える人もいますが、祭司ヒルキアの子エレミヤは全くその逆の性格で、内気の人、引っ込み思案をし勝ちな人だったように見えます。当時の神の民は、先住民カナアンの持っていた民間信仰の影響を受けて先祖の神信仰を歪め、何でも自分たち中心、人間中心に考える一種の混合宗教に陥っていたようです。神に忌み嫌われる不純な信仰に生きるそんな王や政治家・祭司たちが団結して国を統治している所に、独りで出て行き、彼らを咎めて罰を宣告するような神のお言葉を語ることは、内気で若いエレミヤにとっては、考えるだけでも大きな恐れとおののきを覚えることだったと思われます。

② しかし神は、「彼らの前におののくな」「私があなたと共にいて救い出す」とおっしゃって、弱腰のそのエレミヤを「諸国民の預言者として」お立てになったのでした。エレミヤという名前は「神立てる」という意味の名前だそうですが、神は、エレミヤが生まれる前からこの子に御目をかけ、このような名前がつけられるようになさったのだと思います。どんなに弱い人間でも、その時その時に神から与えられるものに忠実に従うならば、苦しみながらでも驚くほど大きな仕事を成し遂げるに到ると思います。弱いエレミヤも、偉大な預言者としての実績を残すに到りました。私たち各人も、神からのその時その時の導きに心の眼を向け、それに忠実に従うよう心がけましょう。

③ 第二朗読は、「もっと大きな賜物を」という言葉で始まっています。この賜物 (カリスマ)は、その人の努力によって獲得される能力ではなく、神の霊によって無償で与えられる、本質的に神の霊の働きであります。紀元前2世紀の中頃にローマ軍によって徹底的に滅ぼされた港湾都市コリントには、その後当時の世界各地から様々の優れた能力を持つ人物がやって来て、新しい社会造りのために自分を売り込もうとしていたようで、町も若い活気に溢れていました。使徒パウロはその中にあって、キリストの愛に生かされ、その愛の能力に生きることが最高の道、最高の生き方であると説いたのです。

④ この世の人々の注目を引く天使たちの言葉 (異言)を語ることも、預言も深遠な知識も、あるいは山を動かす程の強い信仰も、全財産を貧しい人々のために使い果たしたり、人の身代わりに死刑を受けたりする程の善業も、神の愛に生かされてなすのでなければ、やがて永遠の完全な世界が到来した時に、この仮の世と共に全て永遠に過ぎ去ってしまうものなのです。ちょうど理解力も思考力もまだ幼稚であった時の幼児期の考えが、大人になって情報量も増し視野も広くなると、捨てられてしまうように。広大な永遠の世界についてまだほとんど知ることなく、人々の心の奥にある全てのものさえ正しく洞察できずにいる、視野の甚だ狭隘なこの誤謬や誤解のはびこる罪の世にあって、私たち人間の考えていたことも、真理の神が支配する永遠の世界が到来すると、皆捨て去られる不完全なもの、儚い夢のようなものでしかないと思います。古代の小さな青銅の鏡におぼろに映し出された映像のような、そんな知識に操られ過ぎないよう心がけ、何よりも神とその働きに対する信仰・希望・愛に生きるよう努めましょう。神に対する私たちの信仰も希望も、この世にいる時だけのものですが、それらは何れも、永遠に失われることのない神の愛の表明であり、いわば神の愛の両手のようなものだと思います。神において永続するこの愛の能力を磨いていましょう。

⑤ 「愛は忍耐強い。云々」というパウロの言葉を読むと、私はよくノートルダム清心のシスター渡辺和子さんが、30歳代の初めにアメリカの修練院で、130人程の姉妹たちと一緒に生活していた時の思い出話を、思い起こします。渡辺さんは夕食準備の仕事を命じられて、黙々と手早くお皿を並べていたら、その様子を背後から眺めていた修練長から「シスター、あなたは何を考えながらお皿を並べているんですか」と尋ねられ、「何も考えていません」と答えたら、「それでは時間を無駄にしています」と叱られ、お皿を並べる時は、夕食に座る人たち一人ひとりのために祈りながら皿を置くように、と教えられたそうです。それ以来渡辺さんは、一つ一つの皿を「お幸せに」と祈りながら並べるようになったそうです。外から見れば、同じ仕事を同じ位早くやっていても、その祈りの心は態度に表れていると思います。愛に生きるという時、この内的心構えが大切だと思います。

⑥ 私も、道を歩いている時、タバコの吸殻や空き缶などを拾っては、駅や学校などに設置されているゴミ箱に入れていますが、初めの頃はタバコの吸殻が道路に大量にばら撒かれていたりすると、みんなの道路をごみ捨て場のようにしている人に、時々は怒りを覚えたりもしていました。しかし、シスター渡辺さんのその思い出話を聞いてからは、その捨てた人のため「お幸せに」と祈りながら、嫌な顔をせずに拾うようになりました。「愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、云々」と言われています。神の愛はまた、全てを赦すものでもあります。使徒も、同様に実践していたかも知れません。私たちもその模範に倣って、平凡な日常生活を神の愛で聖化するよう努めましょう。

⑦ 本日の福音では、主の故郷ナザレの人々が、「皆イエスを褒めて、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあるのに、その人々の「この人はヨゼフの子ではないか」という言葉も、それに対する主の対応も冷たい印象を与えるので、ちょっと戸惑いを覚えます。しかし、聖書学者雨宮神父によると、日本語で「褒める」と訳されているギリシャ語のマルテュレオーという動詞は、「証言をする」という意味で、有利な証言をする時にも不利な証言をする時にも使われる動詞だそうです。思うに、ナザレの人々は会堂で初めて聞く主の恵み深い言葉に驚き、あの貧しいヨゼフの息子で首都エルサレムで勉強したこともないのに、と自分たちの昔のイエス像について証言しながら、教えのことはどうでもよいから、カファルナウムで行ったと聞く奇跡よりももっと大きな奇跡を我々にも見せてくれ、ここはお前の故郷なのだからというような、少し利己的要求を突きつける態度で、主を眺めていたのではないでしょうか。それで主は、「預言者は自分の故郷では歓迎されない」というような話をなさったのだと思います。信仰と愛のない人々のためには、主も奇跡をなさいません。奇跡は人々を楽しませるための見世物ではなく、神の国、神の働きの臨在を証しして、人々の信仰を堅固にするためのものですから。まず神の臨在を信ずること、そして神への愛に生きようとすることが大切であり、奇跡の前提だと思います。

⑧ サレプタのやもめは、極度の貧困故に一心に神に祈り求め、祈りつつ飢え死にを迎えようとしていたのではないでしょうか。またシリア人ナアマンは、イスラエルの神による癒しに希望を繋ぎつつ、たくさんの贈り物をもって遠路はるばるやって来たのではないでしょうか。いずれも、神の働きに対する信仰と希望に生きていたと思われます。ナザレの人々の日常生活には、この信仰と希望が欠けていたようです。私たちはどうでしょうか。平凡な日常茶飯事の中で、人目につかないようにしながら、神に対する信仰と愛を実践的に表明するよう心がけましょう。そうすれば、隠れた所から隠れている所を特別に見ておられる神からの、人目に隠れた不思議な助けを期待してよいと思います。明るい希望と感謝のうちに、日々神と共に生活するよう心がけましょう。