2010年1月1日金曜日

説教集C年: 2007年1月1日、神の母聖マリアの祝日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 民数記 6: 22~27. Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7.
     Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.


① 元旦の本日は、カトリック教会で「世界平和の日」とされており、世界平和のために特別に祈る日ですので、このミサ聖祭は、ローマ教皇の意向に従い、全世界の教会と一致して世界平和のために神の照らしと導きの恵みを願い求めてお献げしたいと思います。ご一緒にお祈りください。現教皇ベネディクト16世は、この日に宛てた長いメッセージの中で、「神は私たちの助けなしに私たちを創造なさいましたが、私たちの助けなしに私たちを救うことはお望みになりませんでした」という聖アウグスティヌスの言葉を引用して、全ての人には神からの無償の賜物と共に、務め(任務)というものも与えられていることを自覚させ、「平和もまた、賜物である同時に務めでもあります」と書いておられます。そして各人が全ての人の基本的権利である自由平等を尊重し、互いに赦し合い助け合って、家庭においても社会においても国際的にも平和が実現し維持されるよう、祈りかつ尽力する義務のあることを強調しておられます。


② 私たち各人が神からのこの使命をしっかりと自覚して、この使命を忠実に果たす恵みも祈り求めましょう。ただ祈り求めるだけではなく、自分でも日常の人間関係の中で積極的に平和を愛し、譲ることのできることは、多少の苦しみが伴っても喜んで相手に譲り、平和に対する愛を実践的に磨くよう心がけましょう。聖アウグスティヌスは、「平和を愛することは既に平和を有することである」と言っていますが、私たちは自分の心の中に、また隣人との人間関係において、本当に平和を愛し平安を所有しているでしょうか。年のはじめ、「平和の日」に当たって、己を無にして小さく貧しくこの世にお生まれになった神の御子が示しておられる模範を観想しつつ、反省してみましょう。
③ 本日の福音には、天使が去った後のベトレヘムの羊飼いたちの反応が語られています。救い主のお出でを待ちわびていた彼らは、エルサレムの大祭司や律法学者たちとは違って、すぐに立って行動し始めたようです。クリスマスや新しい年の恵みを豊かに受けるには、神から与えられるものに対するこのような実践的受け入れ態度や積極性が大切なのではないでしょうか。私たちも神からの新しい年の恵みをただ感謝して受け取るだけではなく、その感謝を実践的行動や決意表明などで示すよう、今年も心がけましょう。


④ 本日の福音のテーマは、神から知らされた福音を早く知らせようとしたことにあると思います。そこには「知らせる」「告げる」「聞く」などの動詞が幾つも登場していますが、それらの中心的対象になっているのが、ギリシャ語でレーマと言われているものです。レーマは、「語る」という動詞から派生した名詞で、「語られた言葉」、または「出来事」を意味しています。羊飼いたちは、「主が知らせて下さったそのレーマ(出来事)を見よう」と互いに言い合って、急いで行き、マリアとヨゼフと生まれたばかりの乳飲み子とを探し当てたのです。当時のベトレヘムの人口は2千人程と推定されていますから、戸数はせいぜい400か500前後の、村と言ってよい程の小さな町だったでしょうから、そのうち家畜置き場を備えている大きな家だけを探すのは、それ程難しくなかったと思われます。今日の諸教会に設置されている「クリスマスの馬屋」と言われる大きな飾りには、羊飼いたちの像と一緒によく羊たちの像も飾られていますが、夜中の出来事でしたし走って行ったのですから、眠らせていた羊の群れを起こして連れて行くようなことはしなかったと思います。恐らく誰かが交代して羊の群れの番をし、残りの羊飼いたちが探しに行ったのでしょう。


⑤ 探し当てると、彼らはその光景に大きな喜びを覚え、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせたようですが、ここで人々といわれているのは、マリアとヨゼフだけではないと思われます。としますと、静かな真夜中のことですから、階段上の広間(カタリマ)で寝ていたヨゼフの一族の一部の人たちも、下の家畜置き場の物音に目を覚まし、何事が起きたのかと、見に来たのかも知れません。羊飼いたちの話を聞いた人々は皆、その夢のような話を不思議に思ったでしょうが、「マリアはこれらの語られた出来事を全て心に納めて思い巡らせていた」とあります。そこに神の働き、神の愛を洞察したからだと思います。


⑥ 私たちも、自分の身近に起こる出来事の中にいつも神の働き、神の愛を見るように心がけましょう。身近に起こる思わぬ出来事や出遭い等には、神からの何らかのメッセージが込められていることが多いからです。聖母のように、神からのそのメッセージを素直な心で受け止め、心に留めて思い巡らそうとする生き方が、この世にお出でになった救い主の恵みを豊かに受ける道だと思います。


⑦ 見聞きしたことが全て天使の話したとおりだったのを確認した羊飼いたちは、そこに自分たちに対する神の大きな愛を感じ、喜んだのでしょうか、神を崇め讃美しながら帰って行きました。私たちも神がお遣わしになった救い主の誕生、神の御独り子の現存に感謝して喜んで神を崇め、新たな希望のうちに新しい一年の生活を始めましょう。


⑧ 話は横道にそれますが、1988年だったでしょうか、京都に梅原猛氏を初代の長とする国際日本文化研究センターが創立されて間もない頃、私は数年間そこの共同研究員にされて、度々京都に出張していました。そして、そこで古事記・万葉時代の日本語研究の権威者中西進氏の講演を二度ほど聴くことができました。その中西氏によると、「いのち」という言葉の「い」は語源的に息を、「ち」は力を意味しているのだそうです。としますと、太古の日本人は「いのち」を「息の力」と表現して、外的には真に儚く見える息の中に、神秘な神の力を感じていたのではないでしょうか。この話は一年前のクリスマスにも話したかも知れませんが、私はクリスマス、正月の頃に「いのち」というものについて考える時は、いつも中西氏の話を懐かしく思い出します。旧約の神の民イスラエルも神の「霊」を「ルーアッハ」と呼んでいて、この「ルーアッハ」という言葉は本来「息」あるいは「風」という意味の言葉だそうですから、太古の日本人の生命観は、聖書の思想にもよく適合していると思います。


⑨ 現代の科学的合理化・国際化の巨大な潮流の中で、諸国諸民族の伝統的道徳も価値観も根底から突き崩されて、各個人の命、特に小さな者・弱い者の命は恐ろしいほど冷たく軽視され無視されているように覚えるこの頃ですが、2千年前のユダヤでも同様の小さな者・弱い者無視の冷たい人間観が広まっていたと思います。そういう社会の貧しい最下層に、神の御子がか弱い幼子の姿で生まれ、自分の手に抱かれているのを見た時、聖母マリアはどれ程深い感動を覚えたことでしょうか。私は、聖母が恐らく日々愛唱してルカにも伝えたと思われるMagnificatの讃歌を唱える時、これからは小さな者・弱い者を介して神の救いの力が働いて、奢り暮らす者を退け、見捨てられた人を高めて下さる新しい時代が始まったのだという、その聖母の感動を心に想起し追体験するよう心がけています。


⑩ 私たちが今年一年、平凡な日常茶飯事の中で出遭う小さな者や物事を軽視しないよう心がけましょう。神の救う力や恵みは、しばしばそのような小さなものを介して、私たちに提供されるように思います。花や鳥や四季の移り変わりに感動する詩人や画家たちのような、鋭敏な心のセンスが必要だと思います。神の働きを感知し、心を開いてその恵みを受け止める信仰も、一種の芸術的センスであると思いますので。私たちがそのような信仰に生き、今年も神の救いの恵みを豊かに受けることを願い求めて、本日の感謝の祭儀を献げましょう。