2010年1月10日日曜日

説教集C年: 2007年1月8日、主の洗礼(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 40: 1~5, 9~11. Ⅱ. テトス: 2: 11~14,
3: 4~7.  Ⅲ. ルカ福音: 3: 15~16, 21~22.



① 本日の福音には、当時のユダヤ人民衆が神から約束されていたメシアを待望していて、洗礼者ヨハネをメシアではないかと、皆心の中で考えていたとあります。当時のユダヤ人たちは、紀元15年にTiberius皇帝から帝国の臨時統治を命じられたユダヤ人嫌いのSejanusからの指令で、急に高圧的になったローマ総督によるユダヤ支配を、堪え難いものとして嫌悪していましたし、旧約の預言などから考えてもそろそろメシアが出現する時ではないかと予感していたと思われます。ヘロデ大王の晩年に来朝した東方の博士たちの言葉から推察しても、もしメシアが星に徴が現れたというその頃に生まれたとしたなら、すでに30歳代に達したであろうし、もう間もなく世に出現する頃であろう、と密かに待望熱を高めていたのではないでしょうか。


② そこで洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書1章と3章とに述べられているように、自分はメシアではないとはっきりと人々の考えを否定し、「私は水で洗礼を授けているが、私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は聖霊と火で洗礼をお授けになる」などと、間もなく民衆の待望しているメシアの登場されることを告げています。マタイとマルコの福音には、「私の後から」という言葉が添えられており、ヨハネ福音には「あなた方の間にあなた方の知らない人がおられるが、その人が私の後から来られる方で」などと言われていますから、民衆はメシアの出現はもう本当に近いのだ、と感じていたと思います。


③ ところがそのメシアは、民衆が皆ヨハネの洗礼を受けにやって来ていた時、その民衆の群れに混じってヨハネの洗礼を受けに来たので、ヨハネは驚いたと思います。マタイ福音によると、ヨハネは恐縮して「この私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と申し上げて、受洗を思い止まらせようとしましたが、主は「今はそうさせてくれ。このように全ての義を満たすのは、私たちに相応しいことだから」と答えて、ヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになりました。もしこれが事実なら、主は清めを必要としている罪人だったと誤解される恐れがあります。そこでマタイは、二人の間のこのような会話を福音に載せたのだと思います。誤解される恐れが大きいにも拘らず、四人の福音史家が揃って主の受洗について書いていることを考えると、主の受洗は、人類救済の上に大きな意味を持つ史実であったと思われます。それはどんな意味でしょうか。察するに、公生活を始める当たって、まず御自ら全人類の罪を背負い、罪深い民衆の中の一人となって、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けるのが、天の御父の御旨だったのではないでしょうか。主のお言葉にある「義」は、神のこの御旨のことを指していると思います。
④ 主がヨルダン川の濁流に全く沈められ、そこからすぐに立ち上がって祈っておられると、その時天が開け、聖霊が鳩の姿で主の上に降って来ました。そして天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、聞こえて来ました。それは、詩篇2番とイザヤ42章に預言されていた通りの言葉ですが、同時に聖霊が主の上に降ることによって、この方が洗礼者ヨハネが預言したとおり、聖霊によって洗礼を授けるメシアであることを、神ご自身が証しなされたことを示していると思います。こう考えると、ヨルダン川での主の受洗は、救い主としての務めへの就任式といってもよいのではないでしょうか。そして聖霊の降下は、その任務を遂行する力の授与だったのではないでしょうか。救われるべき民衆と救い主とを結ぶ接点、それがメシアご自身もお受けになった、ヨハネの悔い改めの洗礼であると思います。


⑤ 私たちも、救い主による救いの恵みを受けて豊かな実を結ぶには、悔い改めの洗礼を受けて自分の魂の肌に深い傷をつける必要があるのではないでしょうか。さもないと、救い主による洗礼を受けても、その恵みは魂の奥にまでは入り込まず、魂の奥にはいつまでも原罪の名残である自我中心の精神が居残っていて、神の愛に生かされて生きることができないのではないでしょうか。新約時代の恵みは、旧約時代の準備を基礎にして与えられたものです。キリストによる洗礼を受けた者には、洗礼者ヨハネの説く悔い改めは必要ないなどと、短絡的に考えないようにしましょう。洗礼者ヨハネから受洗した主は、今の私たちにも「我に従え」とおっしゃっておられるのではないでしょうないでしょうか。


⑥ 本日の第二朗読には「私たちが行った義の業によってではなく」という言葉がありますが、私たちが救われるのは自分の努力や実績によるのではないのです。私たちは一旦自分に絶望し、自分に死んでひたすら神の憐れみに縋る必要があります。その生き方へと魂を立ち上がらせるヨハネの悔い改めの洗礼は、現代の私たちにとっても必要であると思います。主はそのことを教えるためにも、ヨハネの洗礼をお受けになったのではないでしょうか。主に見習って、私たちも日々悔い改めに励み、魂の奥底にまだ残っている自我の部厚い肌に深い傷をつけつつ、そこから神の無我な愛が、新約時代の洗礼の水が魂の奥にまでしみ込むように致しましょう。本日はそのための勇気と忍耐と導きの恵みを神に願い求めつつ、ミサ聖祭を献げましょう。