2010年1月24日日曜日

説教集C年: 2007年1月21日、第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ネヘミヤ 8: 2~4a, 5~6, 8~10. Ⅱ. コリント前 12: 12~30. Ⅲ. ルカ福音 1: 1~4; 4: 14~21.

① 私たちは毎月一回、極東アジア諸国の平和共存のためにミサ聖祭を献げて、神の導きと助けの恵みを願い求めていますが、今年もこの慣習を続けたいと思います。このミサは日曜以外の週日に献げることが多いですが、今日の日曜日のミサは、この意向で献げたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第二朗読には、「あなた方はキリストの体であり、一人一人はその部分です」という言葉がありますが、この言葉を読むと、私はいつも人体に60億もあると言われている細胞のことを連想します。使徒パウロの時代にはまだ細胞のことは知られていませんでしたが、聖書の言葉を現代文化の中で現代風に読み替え、理解することも許されるのではないでしょうか。人体の各細胞にその人間全体の設計図と言ってよいヒトゲノムが内蔵されていることは、注目に値します。各細胞は、それぞれ増殖・代謝・情報授受などの機能を備えていて、主体的に働くことができますが、その働きをそれぞれ自分の置かれている位置や、自分の所属している器官の役割に応じ、体全体のバランスを大切にしながら為すよう、神から造られているのではないでしょうか。傷つき病的になったガン細胞のように、周囲全体とのバランスや、自分に神から与えられている役割を無視して、ただ自分と同じようなガン細胞を少しでも多く増やして行こうとするわが党主義者は、体全体にとって危険な困り者だと思います。

③ 人体には、目・耳・手足・心臓・肺・胃腸など相異なる様々な器官がありますが、一つの器官の中で生まれたばかりの細胞を、他の器官に移植しても、その移植先の細胞として成長し働き出すと聞くのも、興味深いことです。人間社会においても、貧しい農民の家に生まれ育った子供が、まだ新鮮な若さと意欲を保持している間なら、貴族社会の中に受け入れられても、周りの人々に立派に溶け込み貢献することができるのではないでしょうか。私たちも新鮮な若さと柔軟さを実践的に保持し続けるよう心がけましょう。そうすれば、社会がどのように変わろうとも、その変化に立派に適応して生活し、働き続けることができると思います。

④ ただ、各細胞はより大きな生命力に生かされている存在で、その生命力から離れるならば灰に帰してしまう儚いものであることをいつも心に銘記し、主キリストが身をもってお示しになったように、何よりも父なる神の働きや導きを鋭敏に感知し、それに従って生き且つ働くよう努めましょう。自然界の動植物の種類の多さからも分かるように、神は多様性の愛好者で、相異なる者が全体の生態系を乱さずに協力し合い、共に喜んで神の愛に生きることを望んでおられます。人間にも驚くほど多種多様の素質・考え・性格の人々がいますが、皆心を大きく開いて互いに相手を受け入れ、協力し合って全体の福祉発展に尽くすことを、神は望んでおられるのではないでしょうか。これが、本日の第二朗読の趣旨だと考えます。

⑤ 本日の福音は、ルカ福音の冒頭部分と主のナザレでの話とを結び合わせていますが、この後半部分の主題は、神が貧しい人や抑圧されている人にお与えになる自由と解放にあると思います。聖書のギリシャ語原文では、「自由」も「解放」もアフェシスという一つの言葉になっており、このアフェシスは、自由・解放・罪の赦しなど、多義的な意味を持つ言葉であると聞いています。

⑥ 旧約聖書のレビ記25章に述べられているヨベルの年は、50年毎に神の民にアフェシス、すなわち自由・解放を宣言し、全住民がそれぞれその時の一切の社会的経済的な束縛から解放されて、自分の先祖に与えられた生活基盤(すなわち土地と家族)を再び完全に自分のものとすることができるようにする、恵みの年を意味しています。神から与えられたこの規定が、旧約時代に果たして実施されたのか、また実施されたのなら何時まで続いたのかは、残念ながら確かめることができません。聖書から知られる限りでは、規定はあるものの、ほとんど実施されなかったのではないかと思われます。しかし、神からの啓示にこの規定がある以上、神の御旨では、社会的に貧しく不幸な状態に置かれている人々がいつまでもその苦しい立場に悩まされ続けることなく、半世紀に一度は神の民全員が外的にも対等の兄弟姉妹の立場に戻され解放されて、神の下での自由・解放の喜びを分かち合うように、こうして人間社会や社会体制の歪みを是正するように、というのが理想であったと思われます。ヨベルというのは雄羊の角のことで、恵みの年の初めにアフェシスを告げる大きな角笛を吹き鳴らすことから、その年が「ヨベルの年」と呼ばれるようになったようです。

⑦ 残念なことですが、旧約時代においてはこの理想が実現された形跡は見られません。しかし、本日の福音の最後に主が話された宣言から察しますと、主は新約の神の民においてこの理想が実現すると断言しておられるのであり、この理想が実現する度合いに応じて、その共同体の内に主が現存し働いておられる証しだと考えてよいと思います。少なくともこの罪の世が神の愛の火によって徹底的に裁かれ浄化される終末の日の後には、この理想は完全に実現するでしょうが、しかしそれまでの間にも、新約の神の民がこの理想の実現に努めることによって、人類に神の愛と、やがて与えられる大きな自由・解放とを、実践的に証しすることを、神は強く求めておられると信じます。

⑧ 私たちもそれぞれ自分の置かれている立場で、主が強調なされたこの理想の実現に協力するよう心がけましょう。考えや性格の違いを超えて誰に対しても大きく心を開き、特に何かの束縛の下に苦しんでいる人には、私たちの内に現存しておられる主に信仰の眼を向けながら、温かい援助の手を差し伸べるように努めましょう。主は「貧しい人に福音を告げ知らせるために」、「捕われている人に解放を」もたらすために、神から遣わされて来られた救い主であり、私たちはそれぞれその主の体とされているのですから。

⑨ 本日の第二朗読の教えによりますと、もしその人が洗礼を受けているなら、主において既に私たちと一つの体になっているのであり、まだ洗礼を受けていなくても、私たちと一つの体になるよう主によって招かれ召されているのです。マザー・テレサは、病気の人や体の不自由な人は、自分のその苦しみを神に献げながら、私たちの働きに貢献しているのだと考え、そういう人を「もう一人の私」と呼んでいました。そして自分自身のようにして、その人の世話に配慮しておられました。このような連帯精神と神の愛が働く所に、神の祝福も恵みも豊かに与えられるのではないでしょうか。私たちもマザー・テレサの模範に見習い、温かい美しい心で、神の被造物全体のために生きるよう心がけましょう。