2010年1月3日日曜日

説教集C年: 2007年1月7日、主の公現(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 60: 1~6. Ⅱ. エフェソ 3: 2, 3b, 5~6.
     Ⅲ. マタイ福音 2: 1~12.




① 本日の福音には、「ヘロデ王の時代に」という漠然とした時代設定の下に、東方のマゴイ (占星術の学者たち) がエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこに」と訊ねたり、「私たちは東方でその方の星を見たので拝みに来ました」などと話したりし、これを聞いてヘロデ王もエルサレムの人々も皆不安になっただの、マゴイたちに星が先立って進み、幼子のいる所の上に止まっただの、マゴイたちが幼子を拝み、宝箱を開けて贈り物を捧げただのという、何かの御伽噺にしか出てこないような話や言い方が幾つも登場しています。「王としてお生まれになった方」などという表現も、普通には聞かれない現実離れした言い方だと思います。それで聖書の叙述の様式史的研究をしていたブルトマンという聖書学者が、聖書のこの箇所は新約聖書の中でも最も御伽噺的な要素を多く備えているので、これは歴史的な事実を伝えようとしたものではなく、マタイは旧約聖書に書かれている預言が成就したことを説くために、このような作り話を書き残したのではないか、と主張しました。


② この話はカトリック教会がプロテスタント諸派に大きく心を開いた第二ヴァチカン公会議直後の頃、すなわち1960年代後半から70年代初めにかけてカトリック教会内にも広まり、わが国でも新約聖書を非神話化しようとするブルトマンの思想が流行したことがありました。それで私は、「ブルトマンの新約聖書非神話化に対する史学的見地からの疑問点」と題する論文を、当時のカトリック神学会の機関誌『カトリック研究』第27号に発表し、歴史家の立場からブルトマンのこのような流行思想に強く反対したことがあります。幸い欧米でもブルトマンの思想に対する批判が強まり、1975年頃からはもう支持されなくなりましたが、本日の福音である東方の博士たちの来朝と礼拝について、マタイがユダヤに伝えられた史実をできるだけ誠実に書き残そうとしたのであると思われることは、以前に詳しく話しましたので、今日は少し違う観点からこの福音について考えてみましょう。


③ 日本語の訳文は「イエスは、云々」という言葉で本日の福音が始まっていますが、ギリシャ語原文では「そのイエスがヘロデ王の時代にユダヤのベトレヘムにお生まれになった時」となっています。冒頭に「その」という定冠詞が置かれているのは、そのすぐ前にヨゼフが夢で天使から知らせを受け、妻マリアを迎え入れて一緒になり、マリアの生んだ男の子を「イエス」と名づけた話があり、この子が人間を罪から救う、神から約束されたメシアなのだという信仰が、この福音の背景にあるからだと思います。


④ 本日の福音は、博士たちの来朝と質問、それに対するエルサレムでの反応、そして博士たちの礼拝という三つの部分に分けられますが、そのどの部分にも「星」という言葉と、「拝む」あるいは「ひれ伏して拝む」という意味の動詞が置かれていることは、注目に値します。神は人間の言葉だけでメシアの来臨を知らせたのではなく、文化の違う東方の異教徒たちには、自然界の星を利用しても知らせることのおできになる方であること、そしてその人たちは、聖書を通して啓示されている数々の掟や教えのことを詳しく知らなくても、神の民が受けているそれらの啓示を尊重し、神がお遣わしになった救い主を自分たちの伝統的仕方で尊び礼拝しようとするだけで、神から正しく導かれてその目的を達し、溢れるほど豊かに救いの恵みを受けるのであることを、本日の福音は示していると思います。


⑤ 聖書による言葉の啓示を豊かに受けている私たちも、神からのこの知識を持っていなければ救われないのだ、などという狭い立場に固執しないよう気をつけましょう。神を拝み神に従おうとする心で生きているなら、そして日々その信仰心を行動で実践的に表明しているなら、神の民に与えられている啓示の内容は何も知らなくても、神は必要な導きや救いの恵みを豊かに与えてくださるのですから。鎌倉時代初期の西行法師は、伊勢神宮を参詣して「何事のおはしますをば知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」と詠んでいますが、この歌について宗教学者の山折哲雄氏は、一神教では「神を信ずる」と言いますが、日本人の宗教心の特徴は「神を感ずる」ことにあるのではないか、と言ったことがあります。私はこの見解に賛成しています。東方の博士たちが星によって救いへと導かれたように、多くの日本人は、初日の出を拝んだり、満月に供え物を捧げたり、高い山の霊気に触れたりすることによって神の働きを崇め尊び、心が救いへと導かれているのではないでしょうか。これは、旧約聖書に述べられているような偶像礼拝ではないと思います。偶像礼拝は人間が自分の考えで作り上げたものを最高の存在として崇めることですが、太陽や月や星などは神から与えられた存在であり、それらを介して神が人間の心に呼びかけておられるような道具であり、また神の御子の受肉によって聖化され、ある意味で神の栄光を現しているような存在だと思います。


⑥ 聖書の啓示については、博士たちよりも遥かに多く知っていたエルサレムのユダヤ人たちは、メシアが予言されていた通りにベトレヘムに生まれたであろうことは知っても、ヘロデ王に対する恐れからか、そのメシアを自分で探し出そうとも礼拝しようともしませんでした。神に対する信仰と愛を自分の態度や行動で、日々積極的に表明しようとしないなら、神からの啓示についてどれ程多く知っていても、心は救いの恵みを受けず、既に受けた恵みもその実践的怠惰・軽視のゆえに次々と失って行くのではないでしょうか。後年、主が語られた多くの譬え話の中では、怠たり・軽視の罪に対する警告が克明に強調されています。


⑦ 神の御子は、この世に生まれた幼子の時から、ふさわしい心でご自身に出会うすべての人の心に、神の愛と救いの恵みを豊かに頒け与えようと待っておられたでしょうが、頭では神を信じていても、目前のこの世の生活の安泰や自分の都合などを優先して、隠れた所での神の救いの恵みを敢えてたずね求めようとしない人々、頭を下げて神を拝みに行こうとしない人々は、ベトレヘムの羊飼いたちや東方の博士たちが受けたような神の祝福、クリスマスの本当の内的恵みを受けることなく、その人たちの全ての営みは、やがてエルサレムに訪れようとしていた破滅によって、永遠に空しく葬り去られたのではないでしょうか。それに比べると、神の御子を拝んだベトレヘムの羊飼いたちや東方の博士たちは、たとい神の啓示についてはほとんど知らずにいても、その後も生涯慎ましく希望と喜びの内に神信仰に生き、今は天国で主の御許で仕合せに過ごしておられるのではないかと、私は想像しています。


⑧ 新しい年の初めにあたって、身近の小さな事物現象を通しても示される神のひそかな導きを軽視せず、万事において絶えず神の働き、神の導きに従おうとの決心を新たにしたいと思います。そして東方の博士たちのように、心から深く神を礼拝することにも心がけましょう。これが私たちの心に安らぎと喜びを豊かに与えるものであることを、私たちは実践によって知るに到ると思います。