2010年1月17日日曜日

説教集C年: 2007年1月14日、第2主日(藤沢の聖心の布教姉妹会で)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 62: 1~5. Ⅱ. コリント1: 12: 4~11  Ⅲ. ヨハネ福音: 2: 1~11.

① 本日の第一朗読の出典であるイザヤ書の56章から最後の66章までは、バビロン捕囚から解放される希望や喜びについての預言である第二イザヤには出てこない、安息日や神殿についての記事が登場することから、神の民が既にエルサレムに戻り、破壊された神殿を再建していた頃に預言されたもので、「第三イザヤ」と言われています。当時のエルサレムには数々の大きな問題や困難が山積していたと思われますが、本日の朗読箇所ではエルサレムが擬人化されて、神から「あなた」と親しく呼びかけられ、神の特別な愛と保護が約束されています。このエルサレムを数多くの問題を抱えて苦悩している現代の教会のシンボルと観ることも許されると思います。司祭・修道者の老齢化や減少で、将来が絶望的と思われることもありますが、全能の神の愛にあくまでも信頼し続け、忍耐と希望の内にこの苦境を乗り切るよう心がけましょう。
② 本日の第二朗読には、神の賜物(ギリシャ語でカリスマ)についての使徒パウロの見解が述べられています。それによると、カリスマはその人の訓練・努力によって獲得され磨かれるような能力、現代流行の言葉で言えば個人的な「超能力」ではなく、神の霊によって無償で与えられる神の働きであり、その働きには様々な種類がありますが、それらの働きをなさるのは、全ての場合に神ご自身のようです。そして神は、共同体全体の利益のために、一人一人の内に相異なるそのような働きをなさるのだそうです。神の霊は、私たち一人一人の内にもそのように働いておられます。自分中心の人間的考えを慎み、聖霊の働きに徹底的に従う心が大切だと思います。
③ 紀元前2世紀の中ごろに、カルタゴと同様にローマ軍によっていったん完全に滅ぼされてしまった港湾都市コリントには、その後当時の世界各地から夢多い有能な若者たちが次々と数多く流れ込み、それぞれ出身地の古い伝統から完全に解放された自由な雰囲気の中で、新しい社会の建設に競って働いていました。地の利を得て経済的にも大きく発展しつつあったこの若さに溢れているコリントに、使徒パウロによって創始された教会内にも、聖霊は積極的に働いて、いろいろのカリスマに恵まれた信徒たちが活躍していたようですが、その恵みを自分個人の能力と誤解することのないよう、パウロはその書簡にこのような教えを書いたのだと思われます。古い伝統的組織がその統制力を失いつつある現代にも、各地で頻発する恐ろしい悪魔的事件や災害・不幸に抗して、神の霊は人目につかない様々な新しい形の働きを展開しておられるのではないでしょうか。キリスト者の中だけではなく、善意ある異教徒や無宗教者の中でも、教会の祈りや私たちの願いに応えて働いておられると思います。目には見えなくても、心を大きく開いて聖霊のそのような働きに感謝しつつ、世界の平和のため、また全ての人の贖いのため、今後も明るい希望の内に日々の祈りと捧げに励みましょう。
④ 本日の福音は、主がガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えて、結婚祝宴の最中にぶどう酒不足に困っていた家庭に、そっと大量のぶどう酒をお与えになった奇跡の話ですが、使徒ヨハネはこれを「しるし」と書いています。私たちが表面の力ある業・奇跡的出来事にだけ心を奪われ、神介入のしるしと、そこに込められている神のメッセージを見逃さないように、との配慮からだと思います。結婚式に招かれて出席した人が多すぎたのか、祝宴の最中に台所のぶどう酒がもう無くなっていることに気づかれた聖母マリアは、そのことをそっと主に知らせます。台所にまで心を配る女性特有の細やかな配慮からの行為であったと思われます。祝宴の席から台所の方へ行かれた主は、聖母に「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません」と、冷たいような謎めいたお言葉をおっしゃいました。「母よ」といわれたのでない事から察しますと、主はここで、あのエルサレム神殿での12歳の時のように、この世の母子の人間的関係から離れて、天の御父との関係に入っていること、天の御父からの使命達成のために働こうとしておられることを知らせる言葉であったと思われます。
⑤ 神が提供される終末の日の祝宴について預言しているイザヤ書の25章6~8節では、ぶどう酒は、神が死を永久に滅ぼして神の民の恥を地上からぬぐい去り、全ての民にお与えになる救いのシンボルとされています。主は、この預言のことを考えておられたのかも知れません。主の受難死によって成就され提供されるに到るその救いの時はまだ来ていませんが、いま目前にぶどう酒不足で大恥をかくことになる新婚夫婦の差し迫った危機を前にして、神による終末の大祝宴の前兆をここで人々に味わわせるのが、天の御父の御旨であると、主は思われたのではないでしょうか。台所での主のその御態度から、主が天の御父から使命を受けて何かをして下さろうとしておられるのを感じ取った聖母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と言いました。神が何かをして下さろうとしている時には、一切の人間的な判断を控えて、ただ従おうとすることが大切だからです。
⑥ そこには清めのための水がめが六つ置いてありましたが、いずれも2乃至3メトレテス入りとありますから、80リットルから120リットル位も入るような大きな水がめだと思います。そこに皆、水をいっぱいに満たさせ、それを無言のうちに最上等のぶどう酒に変えて、祝宴に集まっている人々に提供なされたとすると、これは真に驚嘆に値する奇跡であります。しかしそれは、神が終末の日に救われる全人類に提供しようとしておられる大祝宴の、まだほんの小さな小さな前兆でしかないのです。私たちに対する全能の父なる神の絶大な愛と、日々のご配慮に感謝しつつ、明るい大きな希望のうちに本日のミサ聖祭を献げましょう。