2011年12月24日土曜日

説教集B年:2008年降誕祭夜半のミサ(三ケ日)

朗読聖書: 
Ⅰ.イザヤ 9: 1~3, 5~6.  
Ⅱ. テトス後 2: 11~14.
Ⅲ. ルカ福音 2: 1~14.

① 紀元前8世紀に第一イザヤ預言者が、今宵のミサの第一朗読に読まれる預言を語った時には、ガリラヤの民は凶暴なアッシリアの支配下に置かれていて呻吟していたと思われます。希望の光が全く見えない、そういう絶望的な暗い搾取社会の中で悩み苦しんでいる人たちに向って、預言者は「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。云々」と語り始めたのです。「一人の嬰児が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。云々」とある言葉から察しますと、預言者はこの時、それから六百数十年後のメシアの誕生や、そのメシアの王国の遠い将来の輝かしい栄光などを予見しながら、神の民に明るい未来が神から与えられることを預言したのだと思います。

② その預言の中に、「彼らの負うくびき、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折って下さった」という言葉を読みますと、私は『士師記』7章と8章に読まれる次のような話を思い出します。すなわち士師ギデオンが神の民イスラエルを支配していたミディアン人の陣営を、わずか3百人の男たちを三組に分けて夜に包囲し、その3百人各人に松明を左手にかざさせ、右手で角笛を吹き続けさせたら、神の霊の働きで敵軍12万人の陣営の至る所で同士討ちが発生し、逃げるミディアン人たちを追撃して、彼らとその二人の将軍を殺させることに成功したという夢のような話、並びにギデオンがその後その3百人を率いてヨルダン川を渡り、東方の諸民族の敗残兵たち約1万5千人を率いていた敵方の二人の王たちをも急襲して、逃げる二人を捕えて殺害したら、全軍を大混乱に陥れることにも成功し、こうしてイスラエル人たちが自由と独立を獲得したという話であります。預言者は、神の力によるギデオンのこの大勝利よりも遥かに輝かしい大勝利を、将来のメシアの内に見ていたのではないでしょうか。私たちも、2千年前にこの世にお生まれになった幼子イエスの将来には、罪と死の闇に覆われて苦悩している全世界の無数の人々をその暗闇の中から、新しい光と喜びの世界へと救い出す輝かしい大々勝利が、全能の神によって将来に予定され約束されていることを堅く信じ、イザヤ預言者と共に深い感謝と明るい希望の内に、今宵その幼子の誕生を喜び祝いましょう。

③ 使徒パウロは今宵の第二朗読に、「全ての人に救いをもたらす神の恵みが現れました。云々」と述べていますが、ここで「全ての人」とあるのは、およそ人間としてこの世に生を享けた全ての人を指しており、何億人になるか知りませんが、過去・現在・未来の全人類を指していると思います。全能の神の御子メシアの人類を救う力は、時間空間の一切の制約を超えて、遠い過去や未来の人たちにも、すでにあの世に移っている死者の霊魂たちにまでも波及するのです。私たちこの世の人間の想像を絶するその夢のように大きな恵みの力を秘めて、この世に貧しくお生まれになった神の御子は、受難死を遂げてあの世の神の命に復活なされた後にも、もはや死ぬことのない霊化された人間の体を保持したまま、目に見えないながら時間空間の制約を超越して私たち人類に伴っておられます。主は「世の終わりまであなた方と共にいる」と宣言なさったのですから。その主は、今宵信仰をもってその誕生を記念し感謝する人のためには、霊的に新たにその心の中にお生まれになる、非常に神秘な存在であります。これは私たち人間の自然理性では知ることも確認することもできない大きな神秘ですが、カトリック教会が2千年来大切にしているこの伝統的信仰を、私たちも幼子のような素直さをもって受け入れ、それに従いましょう。すると不思議なことに、神の霊がその信ずる心の中に働いて、恵みから恵みへと導いて下さるのを体験するようになります。使徒パウロも神の御子のその神秘な働きを体験し、その立場からテトスにこの書簡を書いていると思います。

④ 今宵の福音をマリアの証言に基づいて執筆した聖ルカは、神の御子メシアのご誕生を、当時の世界的ローマ帝国の歴史的出来事と関連させて述べています。そのご誕生は、家族的・私的出来事ではなく、何よりも全人類の歴史と深く関係している出来事である、という考えからだと思います。ところで、世の人々がほとんど皆眠っている静かな真夜中に誰からも注目されていない所に生まれるという形で、神の御子がこの世に来臨なされたのは、その御子が何よりも私たち各人の心の奥底に、人知れずそっと生まれることを望んでおられることの徴だと思います。神の御子は、何事も理知的に考え勝ちな人間の意識的な頭の中にではなく、無意識的な奥底の心の中にお入りになりたいのだと思います。主が小さな幼子の姿でこの世に来臨なさったのも、私たち各人の心の奥にある、その小さな夢と愛の世界に神の国の恵みをもたらし、そこから私たちの心と生活の全体を支配し、救おうと望んでおられるからだと思います。実際、私たちの心の奥の無意識界には、幼子のように単純で素直な「もう一人の自分」と言われる心が住んでいます。日々の生活の慌しさや外界からの情報にばかり囚われていると、その心、すなわち「良心」あるいは「本当の自己」と称してもよいその心はすっかり眠っているかも知れませんが、せめて年末年始には、自分のその本来の素直な心に立ち返って、自分の人生の来し方・行く末を思い巡らしたり、神から派遣されてこの世にお出でになった救い主に対する信仰を新たにしたり致しましょう。

⑤ 17世紀後半に各人の心の穢れを極度に強調したヤンセニズムの異端思想がフランスから諸国に広まり、敬虔に生活している修道女たちがどれ程よく心を清めても、一週間に3回以上聖体拝領するのはおそれ多いと考える慣習が、20世紀初頭まで修道女たちの間に定着していた時、小さき聖テレジアは「主がミサの時に祭壇の上にお出で下さるのは、そこに留まるためではなく、何よりも私たちの心の中にお住みになるためです」と主張して、毎日でも聖体拝領したかったのですが、修道院長からどうしても許してもらえず、「私が死んだら、あなたのお考えを変えさせましょう」と答えましたが、その死後10年と経たないうちに、教皇聖ピオ10世が頻繁な聖体拝領を強く推奨する回勅を出して、17世紀以来のそのような慣習を退けました。今宵、神の御子は私たちの心の中にも霊的に幼子となって生まれることを新たに望んでおられると信じます。心をこめて聖体拝領をいたしましょう。

⑥ 神の御子がこのようにして私たち各人の心にお出で下さるのは夢のような現実ですが、奥底の心を目覚めさせて、幼子のように素直にその夢を信じましょう。2千年前のベトレヘムの羊飼いたちは、全てを理知的に説明し教えていたファリサイ派の教師たちからは、律法を知らない罪人として非難され、社会的にも軽蔑されて貧しく生活していました。しかし、その苦境の中にあって一心に神の憐れみと御保護を祈り求め、夢を愛する奥底の心を目覚めさせていたと思います。ファリサイ派の宗教教育を受けなかった彼らは、律法はよく知らないので、「頭の信仰」ではなく「心の信仰」で生きていたと思います。神の御子の誕生についての知らせを最初に受けたのは、そのような「心の信仰」に生きていた羊飼いたちでした。私たちも夢と愛を大切にする「心の信仰」に生きるよう心がけましょう。