2011年12月25日日曜日

説教集B年:2008年降誕祭日中のミサ(三ケ日)

朗読聖書: 
Ⅰ.イザヤ 52: 7~10.  
Ⅱ. ヘブライ 1: 1~6.
Ⅲ. ヨハネ福音 1: 1~18.

① 本日の日中降誕祭ミサの福音は、ヨハネ福音書の冒頭を飾っている荘厳な序文からの引用です。旧約聖書の冒頭を飾る創世記は、「初めに神は天と地を創造された」と万物の本源であられる神から説き起こしていますが、使徒ヨハネもそれに模して、新約の福音を全知全能の神から説き起こしています。神の言(ロゴス)によって万物が創造されたのであり、そのロゴスが万物を生かす命であり、私たち人間を照らす真の光であると説いてから、そのロゴスが人間となってこの世に来臨なされた福音を説き始めたのです。それで本日は、ヨハネのこのような神観念について、少しご一緒に考えてみましょう。

② と申しますのは、第二バチカン公会議が「世界に開かれた教会」を一つの努力目標に掲げましたら、ヘブライズムの思想的流れの中で生まれたキリスト教は、生まれてすぐギリシャ・ローマ的な理知的哲学思想の流れの中に広まり、その流れの中で生まれ育った人々に教えを宣べ伝えるために、ごく自然にその哲学思想の影響を受けて、自由や動きの乏しい堅苦しい神学に傾いてしまったが、今日では主イエスの原初の自由な精神に立ち戻って、開放的自由と動的力に溢れた福音を、思想的に多様化している現代の諸民族に宣べ伝えるべきではないかというような思想が、公会議後の一部の知識人たちの間に広まり、キリストの福音を相異なる各民族文化の受け入れ地盤に適合し易い形で宣べ伝えようとする道が模索されているからです。南米での「解放の神学」をはじめ、アジアの一部の国々、そしてわが国でも様々な試みがなされました。

③ しかし、ローマ教皇庁はそういう動向に対しては、公会議の精神を誤解した偏った試みとしていつも警戒しているように見えます。公会議開催中のローマに留学していて、多少なりともその精神を体験して来た私も、同様に感じています。教会は数々の問題を抱えて苦しんでいる現代世界に大きく心を開いて、それらの問題の解決に協力しようとしていますが、しかし、神が救いの御業の主導権を握っておられ、私たちは神の導きに従って生きる従順によって救われるのだという、主キリスト以来の教会の大原則については少しも変わっていないからです。理知的な人間の発想が主導権をとったり、人間の産み出したさまざまな文化が中心になって、福音を文化圏毎にいろいろと多様化させてはならないと思います。それらはいずれも価値ある存在ではありますが、神の御前では陶工の前にある粘土のような手段に過ぎず、神の霊に徹底的に従おうとする信仰精神がなければ、それらから神に喜ばれる実りは期待できないと思われます。

④ 使徒ヨハネは、一切の妥協を許さない光のイメージで罪の闇を退ける強い神、その光を隠して近づく神の言(ロゴス)を受け入れ信じる人を救い出そうとしている強い愛の神を提示していますが、公会議後の一部の進歩的神学者や知識人たちは、非キリスト教的諸文化に対する協調精神や柔軟性に欠ける、そういう非妥協的神観念の退け改めようとしているように見えます。その流れに乗ってわが国でも、皆さまご存じのように遠藤周作さんが小説の分野で無力なイエスを描いたりしましたが、しかし、使徒ヨハネの神観念や神の御子理解と理解に真っ向から対立する、そのような現代人的思想に対しては、反対する人たちも少なくないようです。

⑤ 私は、キリスト教が旧約時代のヘブライズムの流れを大きく広げて、ギリシャ・ローマ文化の流れの中に乗り出し、そこに私たちの受け継いでいる伝統的神学を産み出したのは、神の御旨であったと確信しています。1世紀後半から2世紀後半にかけては、ギリシャ・ローマ思想に基盤を置く「グノーシス思想」と言われた異端思想も数多く発生しましたが、使徒ヨハネの孫弟子に当たる2世紀の神学者聖エイレナイオス司教の活躍で、それらの異端説は全て見事に批判され排除されて、神中心・神の御旨中心のキリスト教神学の道が開かれたからです。私は、外的には全てが極度に多様化しつつあるように見える現代においても、神の導きと働きによって確立されたこの伝統に踏み止まって、世界諸民族の伝統文化を神中心・神の御旨中心に新たに統合し発展させるのが、現代のキリスト教会に課せられている神よりの使命と信じています。その使命達成のためには、人間の理知的エゴや各民族文化の伝統が主導権を取るべきではなく、「私は主の婢です」と答えて、神から示された全く新しいご計画に徹底的に従い協力する意思を表明なされた聖母マリアのように、神の御旨に徹底的に従う精神が何よりも大切だと思います。詩編103:14には、「主は…私たちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」とありますが、塵にすぎない人間の考えに神の働きを従わせようとするような傲慢な試みは慎むのが、神の祝福を豊かに受ける道であると思います。

⑥ 神の御子イエスは、復活して昇天なされた後にも、世の終わりまで目に見えないながらも私たちに伴っておられ、この御降誕祭には霊的に私たちの奥底の心の中にお生まれになると信じられています。夢のような話ですが、幼子のように素直な心でこの神秘を受け止め信じる心には、神の恵みが実際に豊かに与えられます。多くの聖人たちがそのことを体験しています。私たちもその模範に倣い、この降誕節の間幼子のように単純素朴な心、従順な心に立ち返り、私たちの心の奥の無意識界に現存しておられる幼子の主イエスと共に、感謝と喜びの内に喜びも苦しみも全てを神から受けるように心がけましょう。その時、神の恵みが私たちの生活に豊かに溢れているのを実感することでしょう。…