2011年12月30日金曜日

説教集B年:2008年聖家族の祝日(三ケ日)

朗読聖書:
Ⅰ. 創世記 15: 1~6, 21: 1~3.
Ⅱ.ヘブライ 11: 8, 11~12, 17~19. 
Ⅱ. ルカ福音 2: 22~40.

① 本日は聖家族の祝日であります。この世にお出でになった神の御子イエスを囲むヨゼフとマリアの聖家族を模範として、私たちの修道的家族共同体についても、またこの地方に住む無数の家族たちの家庭的幸せについても考えてみましょう。第一朗読に登場しているアブラム、後のアブラハムは、神の声に従ってハランの地を去り、カナアン人たちの住むモレの樫の木の所まで来た時、主が現れて「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束を下さったので、そこに祭壇を築いて主に感謝したのですが、いつまで待っても妻に子が生まれず、自分も妻も既に高齢に達していたので、家の僕エリエゼルを自分の蓄えた資産の後継ぎにしようと考えていました。すると神が幻の中でアブハムに語り、「恐れるな、アブラムよ」「あなたから生まれる者が後を継ぐのだ」とおっしゃって彼を外に連れ出し、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と、アブラムの種から数え切れない程多くの子孫が生まれることを予告なさいました。
② 自然的、人間的には考えられないことですが、神の全能を信じるアブラムは、神のそのお言葉をそのまま受け入れ、信頼を表明しました。神に対する幼子のように素直で従順なこの心を神はお喜びになり、やがて妻サラが男の子を産むという奇跡的恵みを与えて下さいました。そしてその男の子イサクが成長して妻を迎える程になるまで二人は長生きしました。アブラハムは妻サラの死後にも第二の側女ケトラを娶って、更に6人の子供を残す程にまで長生きしています。当時は家庭に若い後継ぎがいる、子供がたくさん生まれて来るということは神よりの祝福と考えられており、実際その家庭を喜びで満たしていたと思います。長年その喜びを待たされていたアブラハムは、最後には本当に大きな祝福と喜びを神から与えられたのではないでしょうか。私たちのこの修道的家族も、神よりのその祝福と喜びを待たされているように思いますが、いかがなものでしょう。望みを捨てずに全能の神に恵みを願いつつ、アブラハムの信仰心で希望をもって生活するよう心がけましょう。そしてこの地方の地元民のためにも、同様の恵みを祈り求めましょう。
③ 第二朗読の中で使徒パウロは、そのアブラハムの信仰について語っています。アブラハムはひたすら神に心を向けながら生活し、神が真実な方であることを少しも疑わずに、ただそのお言葉がどのように実現するのかを、どこまでも忍耐強く待ち続ける人であったと思われます。長年待たされて歳老いてから漸く生まれた、神の約束なさった独り子イサクを、神が火で焼き尽くすハン祭のいけにえとして献げよとお命じになった時も、よくその試練の苦しみに耐え、すぐにそのお言葉通りに実践しました。「神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になると信じたのです」とパウロは解説しています。この世の自然界では経験することも考えることもできない「復活」という奇跡までも、アブラハムは神を見つめながら想定し、神の御言葉に忠実に従っていたのだと思います。本当の家族的幸せは、このような神信仰に生かされ支えられるところから産まれるのではないでしょうか。不安や問題の多い現代社会の中にあって、私たちも小さいながら、そういうアブラハム的信仰の生き方を今の世の人たちに証しするよう心がけましょう。
④ 本日の福音は、神の御子イエスを恵まれたヨゼフとマリアが、律法の規定に従って鳩二羽を代わりに捧げるという形で、その子を神に献げるために、ベトレヘムからエルサレム神殿に上って来た時の話です。神の霊はその御子とヨゼフ・マリアの家族の中だけではなく、初めて出会う人たちの中でも働き、家族を祝福し教え導いて下さるのです。その神の愛の霊に心を向けながら日々の生活を営む所に、家族の真の幸せがあると思います。修道的家族共同体においても、同様だと思います。自分個人のことや、人間理性の考えだけではなく、自分たちの中に働く神の霊の現存と働きにも、心の眼を向けながら生活するよう努めましょう。すると、神が実際に働いて下さるのを体験するようになると思います。神は、そういうアブラハム的生き方を実践する人を、今も待ち望んでおられると信じますから。