2012年1月1日日曜日

説教集B年:2009年神の母聖マリアの祝日(泰阜のカルメル会で)

朗読聖書:
Ⅰ. 民数記 6: 22~27. 
Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7.
Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.

① 皆様、新年おめでとうございます。元日は「国民の祝日」で、わが国では古来全ての人が休みをとり、新しい年を迎えたことを喜び祝賀し合って来ました。それでローマ教皇庁は、公会議後にカトリック典礼や祝日表の見直しが行われた時、日本の教会には元日をカトリック者の「守るべき祭日」とするよう強く勧めたそうですが、当時の日本の司教たちは、まだカトリック国になっていない日本では信徒が元日にカトリック者でない親族・友人との交流を優先しているので、「守るべき祝日」にはせず、ミサに出席するか否かは各人の自由に任せました。私は、日本の社会事情ではそれで良かったと思います。クリスマスから数えて八日目に当たる元日の福音には、幼子イエスの割礼と、その時に「イエス」と名付けられた話が読まれますが、この一月四日に司祭叙階50周年を迎える私は、ここで「神の母聖マリア」の祭日の朗読聖書からは離れて、自分の修道生活・司祭生活について少しだけ回顧してみたいと思います。

② 私は終戦の翌年、1946年から旧制中学4年の同級生たちと新潟県新発田のカトリック教会に行くようになり、47年の8月15日に受洗しましたが、洗礼前の求道者であった時からブスケ神父訳のリジューの聖テレジアの自叙伝『小さき花』を愛読するようになり、それは司祭に叙階される直前頃まで断続的に長く続きました。神学生時代には伊藤庄治郎神父訳のプティトー著『リジューの聖テレジア (霊的幼児の道) 』も、幾度も繰り返して愛読していました。ローマ留学中にカルメル会のある神父から、ドミニコ会のプティトー師はカルメル会の霊性を深く理解していないから、あの著書は良くないという批判を聞きましたが、私はしかし、神は小さき聖テレジアを使って全ての現代人に霊的幼児の生き方を勧めておられるであろうから、カルメル会の霊性の立場で受け止めなくても、各人それぞれの立場でそこから学び、自分なりに霊的幼児の生き方を身につけるのが神の御旨ではなかろうか、と考えました。そして私は今も、私なりに小さき聖テレジアから学んだ霊的幼児の道を歩んでいます。

③ 司祭に叙階される8ヵ月前の5 月3日に終世誓願を宣立する時、私は聴罪司祭の賛同を得て、自分の全てを神のお献げする個人誓願をラテン語で宣立しました。そしてその誓願文を今も毎朝個人的に唱えています。多くの修道者は修道誓願をいわば一種の通過儀礼のようにして、日々その誓願を新たに宣立することはしていないようですが、私は今も毎朝自分のこの個人的献げを神に申し上げ、幼子のように神の導き・働きに縋り、それに従おうと努めています。そして今回顧すると、無能な私が昔風の厳しい条件や審査が、公会議が終わるまで続いていたイエズス会のグレゴリアナ大学で神学博士号を取得したり、ウィーンの神言会大神学院で集中講義を担当しながら、一か月以上もゆっくりとウィーンの街を参観したり、また数多くのカトリック有名人に御目にかかれたりしたことは、幼子の心で生活していた私に対する神からの特別のお恵みであったと思っています。日本に帰ってからも、神の幼子としてひたすら神に頼って生活していますと、不思議なほど幸運を小刻みに数多く体験しました。修道者は誰でも誓願によって自分と自分の一生を神に捧げているのですが、他の人たちに比べて私がこれ程多く幸運に恵まれるのは、とその理由を考えてみますと、それはどうも私が日々神に捧げている個人誓願にあるように思われてなりません。

④ 私が小学1年生の時に始まった中国との戦争が泥沼化して長引くと、小学3年生頃からは戦地の兵隊さんたちへの慰問袋に入れる小さな慰問の手紙を書かされましたが、その少し後からは「新体制」だの「高度国防国家」だのという言葉が多く聞かれるようになり、私は小学5年生の春からは、戦地帰りの先生によってかなり徹底的軍国主義教育を受けました。その教育の一つに戦地の兵隊さんたちとの連帯精神というのがあって、単に兵隊さんたちの武運を神に祈るだけではなく、日々自分の経験する小さな苦しみや失敗、あるいは自分が見つけて為す自由な無料奉仕なども神に捧げて、兵隊さんたちの無事を願い求めるという生き方にも慣らされました。子供の時に仕込まれたこの連帯精神は、カトリックに改宗してからも役立っています。

⑤ 旧制中学5年を卒業してすぐに多治見修道院に入り、新制の多治見高校3年生として修道院から通学する傍ら、修道院生活も体験しましたが、当時今よりはもっと広い敷地と美しい庭園を持っていた多治見修道院は「多治見公園」とも言われていて、花見や紅葉の時だけでなく、日曜祝日にはほとんどいつも家族や二人連れが修道院の庭園を訪ねていました。それでそこに住む神学生たちは、休み日の午後の休憩時間には、その庭園の紙屑拾いや吸い殻拾いをしていました。私はこの時身に付いたこの習慣を、名古屋の神言神学院に住むようになっても、ローマに留学した時も、そして今も続けています。全部のゴミ・缶から・空瓶などを拾い集めなくても、半分乃至三分の一を拾い集めて大きなゴミ箱に入れるだけでも、その小さな奉仕を神に捧げて祈っていると、神が隠れた所からそれを見ておられるようで、私は事ある毎に不思議に神に守り導かれているように実感しています。一例を挙げますと、70年代の中頃にある人から、私が中型バスでキリシタン史跡を案内する時には「いつも晴れますね」と言われてから天候に注意するようになりました。私はその頃毎年数回上京していましたが、バスや新幹線から富士山を見ないことは非常に少ないのに、一緒にいるある神父は、「新幹線に乗っても富士山が見える日は少ない」と話していました。私は沖縄が日本に復帰した翌年の73年から、沖縄のキリシタン殉教者の調査依頼を受けたのがきっかけで全部で5回沖縄に行き、沖縄本島をはじめ、石垣・竹島・西表・与那国・宮古など全部で六つの島々に行っていますが、雨の多い県なのに傘を使ったことがなく、好天に恵まれることが多くてたくさんの良い写真を撮っています。それで石垣島生まれの宇根神父から「青山神父は晴れ男ですか」と感心されました。70年頃からもう40年くらいも続いているこのような話は山ほどありますが、全ては遠出をする時の私への、神の格別の計らいだと思います。

⑥ 神学生時代に学んだもう一つのことは、あの世にいる親族・友人・知人のため、また一般的に煉獄の霊魂たちのために祈るという習慣であります。これは、私の教わったドイツ人宣教師たちが実践していたことで、宣教師たちは「煉獄の霊魂たちのために祈っていると、不思議に助けられる」と話していました。子供の頃に連帯心教育を受けた私も、煉獄の霊魂のため、特に今特別に助けを必要としている霊魂たちのために祈ることを続けてみますと、やはり小さなことでいろいろと助けられたり教えてもらったりする体験をするようです。それで今でも週に2回は、煉獄の霊魂たちのためミサを献げて祈っています。そして毎日幾度も行なっている階段の上がり下がりの時にも、小さな射祷をその霊魂たちのために唱えています。

⑦ 同年輩の多くの人たちが亡くなったり病院通いをしたりしている中で、私がこうして小さいながらも元気に働いておれるのは、ひとえに神の助けと導き、そしてあの世の人たちからの助けと導きによるものと思いますので、小さき聖テレジアに学んで私なりに身につけたこの自己流「幼子の道」をこれからも歩み続けようと、司祭叙階の金祝を迎えて決意を新たにしています。ご清聴ありがとうございます。