2012年1月15日日曜日

説教集B年:2009年間第2主日(三ケ日)

朗読聖書:
Ⅰ. サムエル上 3: 3b~10, 19.
Ⅱ. コリント前 6: 13c~15a,17~20.   
Ⅲ. ヨハネ福音 1: 35~42.

① ご存じのように本日1月18日から25日までの一週間は、毎年恒例の「キリスト教一致祈祷週間」であります。主キリストを聖書に基づいて救い主・メシアと信奉しているのに、数百年来未だに相対立する別々の信仰集団を形成して一致できずにいるキリスト教諸派が、主キリストの内に一つになり、一致してキリスト教信仰を世に証しするようになる恵みを、神に願い求める週間とされています。

② このようにして、キリスト教諸派が主キリストにおける一致のために、神からの恵みと導きを祈り求める週間の起源をたどってみますと、今から150年余り前の1858年11月にロンドンで、プロテスタントのYMCAが始めた世界祈祷週間 (Universal Prayer Week) にまで行き着きます。その頃英国YMCAの会員たちは、毎年11月の第二日曜日からの一週間、教会一致のために祈っていましたが、この慣習は1867年にパリで開催されたYMCA同盟の総会で、YMCAの世界的祈祷週間になり、更に1901年からは女性のYWCAも共催するようになりました。1901年のエディンバラ世界宣教会議で世界教会協議会 (World Christian Council: WCC) が創設されてからは、YMCAやYWCAに所属していないキリスト者たちの間でも、このような祈祷週間が世界的に広まり、その人たちからの呼びかけに応えて、カトリック教会内でも、毎年1月25日「聖パウロの回心」祝日の前の一週間、信仰一致のために祈る祈祷週間が始まり、第一次世界大戦後には歴代教皇たちの呼びかけで世界的に広まりました。それはしかし、当時のプロテスタント諸派のように、各派が心を大きく開いて教義内容や教会組織についてまでも話し合うような運動を伴わず、何よりもキリスト教諸派が使徒パウロのように己を無にして、主キリストがお定めになり、現在まで連綿と続いている聖ペトロの後継者ローマ司教を中心とするカトリック教会に帰属することによって、全てのキリスト者が一致する恵みを祈り求める祈祷週間だったようで、プロテスタント側からは甚だ独善的に見えるカトリック側のこの精神は、今も多少形を変えて続いています。

③ プロテスタント諸派の教会一致の努力は、相互に心を広げてどれ程話し合いを重ねても、いつも新たな限界を痛感させられるだけで、なかなか思うようには実を結ぶことができなかったようですが、それでも神に導きと恵みを求める努力だけは、いろいろと形を変えて、第二次世界大戦後にも忍耐強く続けられています。プロテスタント諸派のそういう動きも考慮し、教皇ヨハネ23世は、1960年6月5日に第二バチカン公会議準備委員会を設置すると同時に、キリスト教一致推進評議会もカトリック教会内に創設し、公会議にはプロテスタント諸派の代表者たちをもオブザーバーとして招へいしました。この時以来カトリックとプロテスタントとの関係は親密さを増して、様々の催し物も行われていますが、しかし、未だに教会一致実現の兆しが具体的に明確になっていません。お互いに数百年来の伝統を捨てきれず、己を無にして神に従うことの厳しさに、逡巡しているからのなのかも知れません。第二バチカン公会議後の1968年以来、カトリック教会は毎年キリスト教一致祈祷週間のため一つのテーマを定めていますが、今年は「それらはあなたの手の中で一つになる」というエゼキエル書の言葉が、そのテーマとされています。プロテスタントもカトリックと同じ一月後半に教会一致祈祷週間を移し、心を合わせて祈るようになり、近年では毎年両者共同でその祈祷週間のための小冊子を発行しています。私たちもプロテスタントの方々と心を合わせて、教会一致のために祈るように心がけましょう。

④ 本日の第一朗読には、まだ子供であった後のサムエル預言者に対する、神の数度に及ぶ呼びかけが述べられています。その四度目の神の呼びかけに、サムエルが祭司エリの勧めに従って「どうぞ、お語り下さい。僕は聞いています」と神に申し上げた言葉は、大切だと思います。この世の出来事や情報だけに心を向け、自分の考えに従って生きるのではなく、何よりも私たちの心の奥に呼びかけておられる神の声に心の耳を傾け、そのお言葉に従って生きる生き方を、神は私たちからも求めておられると思うからです。まずその神の隠れた現存に対する信仰を新たにしながら、何も聞こえなくても、神に心の耳を傾けながら毎日少しの時間、静かに留まるようにしてみましょう。そのように心がけていますと、やがてはその神が自分の心の中でもそっと働いて下さるのを、実感するようになります。

⑤ 本日の第二朗読に読まれる、「あなた方の体は神から戴いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。あなた方は代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」という使徒パウロの言葉も、大切だと思います。大きな善意からではあっても、神のために人間の考え中心に何かを為そうとする信仰生活は、まだ神の霊の器・神殿としての生き方ではなく、悪く言うなら、神の愛と働きを人間側から利用しようとする生き方だと思います。もちろん、それでも神を信じない生き方よりはましですから、憐み深く寛大な神は、そのような信仰者の願いにもお耳を傾けて下さるでしょう。しかし、いつまでもその生き方に留まり続け、そこから抜け出て神中心の生き方へと高く昇ろうとしないなら、私たちの体を神殿としてその中に宿っておられる聖霊を悲しませるのではないでしょうか。前述した使徒パウロの言葉は、そのような人間中心の信仰生活を続けている人たちに対する、警告であると思います。

⑥ ただ神に祈り求めるだけ、神が働いて下さるのを待つだけというのでも足りません。私たちの側でも、日常の小さな出会いや出来事の中で、神への愛や従順などを実践的に表明する必要があります。本日の福音によると、洗礼者ヨハネが歩いて通り過ぎられる主イエスを見て、一緒にいた二人の弟子ヨハネとアンデレに「見よ、神の小羊だ」と話すと、二人の弟子はその主の後について行きました。神は二人のこの小さな実践を受け止めて働いて下さいます。そして二人とその兄弟たちが、やがて主の使徒となって働く恵みにまで、お導き下さったのです。やはり平凡な日常生活の中での小さな出会いを大切にし、神よりのものと思うものには積極的に従おう、協力しよう、奉仕しようとする小さな実践の積み重ねが、私たちの上に神の豊かな祝福を齎すのではないでしょうか。神は隠れた所からいつも私たちに伴っておられ、私たちの全ての行いを見ておられるという信仰を新たにし、その信仰の中に生きるよう心がけましょう。