2012年1月29日日曜日

説教集B年:2009年間第4主日(三ケ日)

朗読聖書:
Ⅰ. 申命記 18: 15~20.
Ⅱ. コリント前 7: 32~35.
Ⅲ. マルコ福音 1: 21~28.

① 本日の第一朗読は、イスラエルの民が約束の地に入る前に、間もなくネボの山で死ぬことになるモーセがその民に語った遺言説教であったと思います。その中でモーセは、神はあなたたち同胞の中から、(これからも)「私のような預言者を立てられる。あなたたちは、その人に聞き従わねばならない」と述べています。そしてこのことは、あのシナイ山の麓での集会の日に、山全体が恐ろしい火と煙に包まれ、火の雲に乗って山の上に降られた神が、雷鳴と稲妻の中で、権威をもって語られるのに驚き、それを極度に恐れた民が、私たちが二度と神・主の声を直接に聞くことがないように、この大いなる火を見て死ぬことがないようにして下さい、と願い求めたことによるのだ、とモーセはその理由を説明しています。

② その時神がモーセにお語りになった次のお言葉が、この第一朗読の後半に読まれます。「彼らの言うことは、尤もである。私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立てて、その口に私の言葉を授ける。彼は、私が命じることを全て彼らに告げるであろう。彼が私の名によって私の言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、私はその責任を追及する。ただし、その預言者が私の命じていないことを、勝手に私の名によって語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」というお言葉であります。これが、神がそのお考えを私たち人間に伝えるために、ご自身でお選びになった道であると思います。神がいつもモーセやその後継者ヨシュアのような、強い信仰に生きる人を介してお語りになるとは限りません。モーセたちの死後2百年近く続いた士師時代には、神は度々小さな預言者、農民や婦人たちを介してもお語りになり、神の民を守り導いておられました。信仰をもって神の御言葉を受けた人たちの外的人間的容貌や偉大さなどは問わずに、その人を介して告げられた神の御言葉に対する従順と信頼を実践的に表明するなら、神はその人たちを導き助けようとなされたのではないでしょうか。神に対する信仰とお任せの心、徹底的従順の精神が大切だと思います。

③ 今の日本には、一昨年から団塊世代の大量退職が始まっているようですが、長年やり慣れた仕事や職務を後輩たちに譲った後の虚脱感や自分の体力の衰え、あるいは子供たちが離れ行く淋しさや、病気の不安や、やがて必ず訪れる死に対する恐怖などを痛感している人たちが少なくないと思われます。そういう人たちが、私たち神信仰に日々喜びをもって生きている修道者を見ると、神様って本当にいるのか、天国って本当にあるのか、もし本当にあるのなら、自分も聖書を読みキリスト教会に行ってみようか、などと考えることもあるようです。結構なことだと思いますが、しかし、長年科学的思考や効率主義の流れの中で生活して来た人が、その自己中心的便利主義の精神で聖書を読み、その中に自分の心の憧れるものをたずね求めても、教会の日曜礼拝に参加してみても、失望を感じさせられてしまうことが多いのではないでしょうか。マタイ18章3節に読まれる、「心を入れ替えて幼子のようにならなければ、天の国に入ることができない」という主イエスの御言葉から察しますと、年齢が進んで退職したそういう人たちは、これまでのこの世的生き方やこの世の組織中心の生き方から完全に離れ、あたかも生後間もない幼子が母の胸に抱かれ縋りつくように、ひたすら謙虚に神の働きや導きに信仰をもって抱かれ縋りつくことによってのみ、神の現存や愛を実践的に体験するようになり、神による救いに参与するようになるのではないでしょうか。こうしてひと度神による救いを体験しますと、人間本来の理知的能力はその体験に基づいて、日々観るもの出逢うものの中にひたすら神よりの呼びかけや恵みをたずね求め、神の働きや導きに従って生きようと努めるようになります。これが、神が私たち人間から求めておられる生き方なのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読には、「結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます」「結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います」などと述べられていますが、使徒パウロは、結婚を罪だと考えているのでも、全ての人に独身を求めているのでもありません。ただ万物流転の儚さを痛感させるようなこの世の大きな過渡期には、幼子のように神の働き、神の導き一つにしっかりと捉まり、思い煩わずに、神の御旨に聴き従う生き方を勧めているのだと思います。本日の朗読箇所のすぐ前にも、「この世の有様は過ぎ去るからです」と、私たちが今目前にしている事物現象の儚さを強調していますから。

⑤ 本日の福音には、人間理性を中心にして聖書を研究し、そこから神の民が守り行うべき法規を学び取ろうとしていた当時の律法学者たちのようにではなく、万物を支配し統御なさる神のような権威と力をもって、教えたり悪霊を追い出されたりなされた主イエスのお姿が描かれており、人々は皆驚いて、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が穢れた霊に命じると、その言うことを聞く」などと話し合ったことが、述べられています。理知的なこの世の人々の考えや言葉が、高度に発達したマスコミを通じ洪水のように荒れ狂っている世界の岸辺で、すっかり疲れている現代人の心が必要としているのも、あの世の神からのそういう権威ある新しい教え、力ある神ご自身の御言葉なのではないでしょうか。神は現代においても、マスコミを介してではなく、神への従順と信頼の内に神からの呼びかけに耳を傾けている敬虔な人を介して、私たちにお語り下さると思います。そういう人たちは、社会の底辺や一般庶民の中に隠れているかも知れません。隠れた所から私たちを観ておられる神に対する信仰を新たにしながら、あの世からの神の呼びかけに耳を傾け、聴き従うよう心がけましょう。