2012年1月9日月曜日

説教集B年:2009年主の洗礼(三ケ日)

朗読聖書:
Ⅰ. イザヤ 55: 1~11. 
Ⅱ. ヨハネ第一書簡 5: 1~9.
Ⅲ. マルコ福音 1: 7~11.

① 本日の第一朗読は、紀元前6世紀にバビロン捕囚の身となっていたイスラエル人たちに、神による救いを告げた第二イザヤ預言者の最後の言葉からの引用であります。ここで預言者はもう一度、神に立ち帰り、神の言葉に信頼して生きるよう呼びかけていますが、その中に読まれる神の言葉、「私の思いはあなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なる」「天が地を高く越えているように、私の道はあなたたちの道を、私の思いはあなたたちの思いを高く越えている」というお言葉や、「私の口から出る私の言葉は、虚しくは私の許に戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」というお言葉は、注目に値します。私たちが自分の考えではなく、神のお考えに徹底的に従って生きようとするならば、全能の神は私たちを憐れみ、私たちの罪を全て赦して、私たちの考えを遥かに超える豊かな恵みを、私たちに与えようと考えておられるのです。私たちの生活している現代世界も、人間の力ではもうどうにもならない程、大災害に襲われる時が来るかも知れません。その時のため、神のこれらのお言葉をしっかりと心に刻んで置きましょう。己を無にして、神の呼びかけや導きに徹底的に従うために。

② 本日の第二朗読は、「イエスをメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」という言葉で始っていますが、ここで「信じる」とあるのは、頭だけで「メシアである」と考えることではなく、心の底から自分たちを救って下さる、神から約束された私たちの主・メシアであると信奉し、その信仰を自分の生活に実践的に生かしつつ生活することを指していると思います。私たち人間には、この世で生活するために必要な、自分で考え、自分で決定する理知的能力が神から与えられています。その中心をなしているのがego (自我) というものです。この自我は、外界からの知識や技術を身につけ利用しながら、少しでも強くなろう、豊かになろう、人からよく思われようと、眼をこの世の世界に向けています。それも必要なことですが、しかしもう一つ、私たちの心の底の無意識界には「もう一人の自分」と言われる命も隠れています。深層心理学ではそれをself (自己) と呼んでいますが、この自己は時々夢という形で、自分の状態や望みなどを夢に反映させて知らせてくれます。しかし、日頃は無意識界に深く隠れています。戦後の自由主義・個人主義の教育を受け、外的成功や豊かさ便利さにだけ眼を向けて生活していますと、自我だけが一方的に活躍し、自分の「良心」と言ってもよいこの自己は、すっかり眠っているかも知れません。二つのものが一つになって働くことが、大切だと思います。神は万物を、男と女、火と水などのように、相対立する二つのものが一対になって、助け合い補い合って働くようお創りになったのではないでしょうか。私たちの心の中でも、絶えず自分の外のものに目を向けそれらを利用しようとしている理知的自我と、直観的心情的で何か独自のものを生み出そうとしている意志的自己という二つの能力が生きており、成長しようとしているように思います。

③ 神の御言葉は、何よりも無意識界にいる自己に対する呼びかけであると思います。自我がそのお言葉を受け入れ、それに基づいて無意識界にいる自分の自己に働きかけ、自己を数多くの実践によって目覚めさせるようにしていますと、幼子のように素直なその自己の内に宿った神の命が逞しいものに成長して来ます。そしてその成長は、自分の見る夢の中に反映したり、また自分の日々の生活の中での小さな幸運・守り・導きという形で体験したりするようにもなります。数百年前のキリシタンたちは、聖書も教理も、現代の私たちより遥かに少ししか知っていなかったと思いますが、しかしその人たちの奥底の心は、戦国時代の生活の不安や労苦の中で、あの世の神による不思議な助け・導きというものを、小刻みに数多く体験していたと思われます。そして自分の素朴な日常生活に伴なっておられる全能の神の現存を、数多くの体験に基づいて生き生きと信じていたと思われます。ですから、死ぬことも神信仰故に迫害され殉教することも、厭わなかったのではないでしょうか。私たちも、そういう逞しい生き方に見習うよう心がけましょう。

④ 本日の福音は、ヨルダン川での主イエスの洗礼の話ですが、教会は古代から聖書に基づいて、洗礼を「生と死の秘跡」と教えています。自己の内に宿る神の御旨中心の命に生きるために、人間中心の理知的な自我の考えや望みに死ぬ恵みを、与えて下さる秘跡という意味だと思います。主は、神のそのような働きを身をもって世に示すために、洗礼者ヨハネからヨルダン川の水の中に沈められ、そこから立ち上がるという洗礼を、お受けになったのではないでしょうか。私たちも内的に主に見習って、自分の中のこの世的な自我の命に死ぬなら、その度ごとに主の御功徳に参与し、神の霊の恵みに浴することができると思います。….