2012年1月25日水曜日

説教集B年:2009年1月25日聖パウロの回心(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒言行録 22: 3~16. . コリント前 7: 29~31.   Ⅲ. マルコ福音 16: 15~18.
ご存じのように、昨年の5月にローマ教皇庁は、使徒パウロの生誕年が紀元7年から10年までの間であるという歴史家たちの見解に基づき、昨年6月からの一年間を「パウロ年」として、その生誕2千年祭を祝うことにしました。今年の125日「聖パウロの回心」の祝日は年間第3主日で、典礼の規則上では主日のミサをささげることになっており、多くの教会堂では主日のミサが捧げられているかと思いますが、「パウロ年」中であるため本年に限り、一つのミサだけは、「聖パウロの回心」のミサを捧げることが許可されています。そこで、ここではその「聖パウロの回心」のミサをささげることに致しました。
教皇がこの時点で「パウロ年」を祝うことにしたのは、各人の自由と個性を尊重する現代の巨大な民主主義潮流の中で、十字架のキリストの精神を説くパウロの教えが無視され、その結果理知的な人間の自力主義だけが横行して、神の恵みが私たちの内に働かなくなるのを少しでも阻止しよう、とのお考えからではないでしょうか。使徒パウロは、本日の第一朗読にもあるように、タルソス生れのギリシャ語に堪能なユダヤ人ですが、エルサレムの優れた律法学者ガマリエルの下で厳しい教育を受け、熱心に神に仕えていた律法学者でした。しかし、人間側から最高度に進められ打ち立てられたファリサイ派のこの伝統的聖書解釈に基づく信仰生活を乱し、ナザレのイエスの新しい教えに従って生活している一種の新興宗教が広まりつつあるのを知ると、ユダヤ人の伝統的信仰を護持し子孫に末永く伝えるためにもそのような新興宗教を迫害し、その新しい信仰がダマスコを拠点としてギリシャ語圏のディアスポラ・ユダヤ人の間に広まるのを阻止するため、大祭司や長老会からの全面的支持を受けて、神殿護衛の兵士たちと共にダマスコの町に入る直前に、復活して永遠の命に生きておられる神の子イエスによって地面に投げ倒され、人間側の理知的聖書解釈中心の生き方から、人間の理知的考えでは知り得ない神のお考えやお導き中心の生き方へと転向しました。私たちは本日、この使徒パウロの転向の恵みを記念し感謝しながら、同じ恵みを神に願い求めつつ、このミサ聖祭を献げています。
新しい新興宗教を撲滅しようとしていたパウロに主イエスは、「私はあなたが迫害しているナザレのイエスである」と話され、その輝く光によって彼を盲目にしてしまいました。一緒にいた人たちに手を引かれてダマスコの町に入ったパウロは、三日間盲目のまま食べも飲みもしませんでしたが、その間に天からの強い光の中で自分に出現なされた主イエスについても、またユダヤ人たちの伝統的信仰生活についてもじっくりと考え直し、ダマスコのキリスト者アナニアの訪問を受け、「私たちの先祖の神があなたをお選びになった。云々」の話を聞いて洗礼を受けると、忽ち目から鱗のようなものが落ち、元通り見えるようになりました。
パウロの心はこの時から大きく変わり、十字架刑を受けて死んだ後、神によってあの世の不死の命に復活したと聞く、主イエスに対する信仰と従順を中心とする生き方を始めるようになりました。使徒言行録9章によりますと、パウロは既にこの回心直後から、(聖書に基づいて) イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいたユダヤ人たちをうろたえさせたようです。ユダヤ人としては「サウロ」という名であったパウロは、父親がローマ人の支配に貢献したのか生来ローマ国籍も持っていて、ローマ人としては「パウロ」という名前でしたが、暫く荒れ野に退いて主イエスから直接に数々の教えを受けた後エルサレムに行き、キプロス島出身でギリシャ語を話すバルナバの紹介で、ペトロをはじめとする主の使徒たちにも会いました。そしてナザレのイエスがメシアであることを大胆に論証していたらユダヤ人から命を狙われ、いったん故郷のタルソに退きました。しかし、その後バルナバがエルサレム教会からアンティオキア教会に派遣され、両教会の一致協力のために働くようになると、バルナバによってアンティオキア教会に招かれて一緒に働くようになり、間もなく聖霊によって異教徒の国々に派遣され、異教徒改宗のため主キリストの霊に導かれ支えられて、数々の困難・対立を克服しつつ、働くようになりました。
本日の第二朗読でパウロは、「時は迫っています。今からは」「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」と述べ、本日の福音には、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」という、主の厳しいお言葉も読まれます。近年物騒な事件が頻発し、心の教育や鍛錬が世界中至る所で軽視されていたり、地球温暖化の影響や飲料水の不足などが世界中に広まりつつある今の世界の終末的実態を考慮する時、これらの言葉は、一応順当に営まれている私たちの信仰生活にも、一つの決断を迫っているように思われます。私たちは果たして使徒パウロのように、しっかりと神の働きや導きに根ざし、己を無にして人々の救いのため献身的に働こう、勇気をもって前向きに主キリストの精神を世に証ししようと努めているのでしょうか。2千年ほど前の昔、数多くの人の心に主キリストに対する信仰と愛を伝え、根付かせた使徒パウロの模範に倣い、私たちも己を無にして神の愛と働きを世に証しする恵みを、使徒パウロの取り次ぎを願いつつ神に祈り求めましょう。
使徒パウロの回心について思い巡らす時、彼が聞いた「なぜ私を迫害するのか」という主イエスの御言葉も、大切だと思います。彼は回心後もそのお言葉を心に留めて思い巡らせていたようで、遂にコリント前書12章に典型的に述べられているように、「実に私たちは、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、奴隷であれ自由人であれ、洗礼を受けて皆一つの霊によって一つの体に組み入れられ、一つの霊によって」生かされているのだ、という信仰にまで達していたようです。ユダヤ教の伝統的律法の外的順守などはもはや問題ではなく、それらを遥かに越えて、神の新しい働きへの愛と忠実に生きる人たちは、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、男であれ女であれ、皆主キリストの内に一つの体に組み入れられているのだと考えるパウロの思想、それを現代風に表現するなら、キリストを信ずる各人は、人体に60兆個もあると言われる細胞の一つのようになって、主キリストの命に生かされているのだ、と考えるこのような思想は大切だと思います。ここにおいては、もはやあの世もこの世もありません。人間としてこの世に生を受け、神信仰と神への愛に生きる人たちは、皆救い主キリストの体の細胞のようになって神の命に養われ、支えられつつ生きるよう召されているのです。
使徒パウロは、全人類の罪を背負って十字架刑を受け、全ての罪を償って私たちを贖って下さった主キリストに対するこのような信仰から、救われる人類に対する連帯精神も大切にし、自分が受ける日々の労苦や苦悩を厭わずに喜んで甘受し、一人でも多くの人がキリストによる救いの恵みに参与するよう献げていたようです。そして自分が苦しめば苦しむほど、各地でキリストの信仰と愛が一層盛んになり、逞しく広まるのを確認していたようです。現教皇が意図した「パウロ年」の精神を心に刻みつつ、私たちもこの「パウロ精神」を今の世に実践的に証しし、広めるよう心がけましょう。そしてそのための導きと恵みを願い求めつつ、本日のミサを献げましょう。