2012年2月5日日曜日

説教集B年:2009年間第5主日(三ケ日)

朗読聖書: . ヨブ 7: 1~4, 6~7. . コリント前 9: 16~19, 22~23.

. マルコ福音 1: 29~39.

本日の第一朗読であるヨブ記と本日の福音については、3年前の説教にいろいろと詳しく話しましたので、重複しないため、ここでは第二朗読である使徒パウロのコリントの教会への書簡についてだけ、ご一緒に考えてみたいと思います。ご存じのように、昨年の628日から今年の629日まで、カトリック教会では使徒パウロの生誕2千年を記念する「パウロ年」とされていて、パウロの信仰の熱心や信仰精神に学ぶことが勧められていますから。

第二朗読の出典であるコリント前書は、16章に達するかなり長い書簡ですが、その内容は大きく分けて、6章までのコリント教会の内部分裂や信仰生活の乱れ、信仰内容や信仰精神の未熟さなどを扱っている第一部と、7章以降の第二部とに分けられます。この第二部でパウロは、コリント教会側の質問に答えるような形で、結婚と独身問題、パウロの使徒としての権利、信徒と他宗教との関係、典礼集会と聖体祭儀の仕方、神の霊の種々の賜物と愛、キリストの復活と私たち人間の復活体などについて、詳細に論じています。

コリントはアテネと同じくらい古いギリシャ人の町で、ギリシャ南部のペロポネソス半島の狭くなっている付け根にあり、そこには東からも西からも地中海が細長く迫って来ていて、陸地がわずか数キロに狭まっている所に建っていたので、西側の主要港の他に、もう一つ東の方へ行く船のためケンクレアイという港も持っていました。使徒言行録18章には、使徒パウロが第二回伝道旅行の終りごろに、このケンクレアイで髪の毛を剃り落したことが述べられています。おそらくそのころ神に何かの願をかけていたのでしょう。どちらの港も嵐の時の船舶の停泊地であり、コリントには東西地中海世界の産物が多く持ち込まれたので、町はギリシャの商工業の中心地として繁栄していました。しかし、古代ローマが強大になると、紀元前146年に西地中海最大の商業都市カルタゴと共に、地中海中部の豊かな港町コリントも、ローマ軍によって徹底的に破壊されてしまいました。その百年ほど後に、ユリウス・カエサルによって、カルタゴと同様コリントも復興されましたが、そこに住む人たちはもう昔のギリシャ人ではなく、ローマ市民権を持つ人たちや、地中海諸国から新しい仕事を求めて参集した商工業者・労働者たちでした。現代の多くの国際都市の住民たちと同様に、当時のコリントの市民の間では、新しい知識や情報を積極的に受け入れようとする精神と共に、それらを自分中心に理知的に理解し利用しようとする精神も強かったと思われます。使徒パウロはこの国際都市に1年半ほど滞在して多くの人に洗礼を授けましたが、その人たちが自己中心の理知的な精神でキリスト教信仰を誤解しているのを憂いて、このコリント前書を認めたのだと思われます。

本日の朗読箇所の中で、パウロは自分が無報酬でなしている宣教活動について弁明しています。「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。云々」の言葉は、ちょっと理解し難いでしょうが、パウロは自分から福音宣教という使徒職を志望し、その使徒職の報酬で生活しているのではない、そうではなく、天の御父からこの世に派遣された神の御子キリストが、人類救済のため己を無にして天の御父の御旨のままに働き、宣教し、最後にその御命をお献げになったように、自分はその主キリストから派遣されてキリストの奴隷となり、キリストの精神で福音を宣べ伝えているのだ、と言いたいのだと思います。それは、全ての人を救うための献身的奉仕活動、羊たちの救いのためには自分の命をも捧げて惜しまない、全く奉仕的な活動なのです。

ですからパウロはここで、「無報酬」という言葉を強調し、普通でしたら教える教師がその弟子から、恵みを伝える人がそれを受ける人から、当然何らかの報酬を受ける権利を持っていますが、パウロはその権利を敢えて用いず、自分でテント造りなどの仕事もしながら生計を立て、ローマ市民権も持つ立派な自由人でありながら、全ての人の奴隷のようになって弱い人にも強い人にも奉仕しつつ、何とかして一人でも多くの人を救うためにどんなことでもしているのだ、と述べています。それは、何事にも自分のこの世の生活のため、自分の損得を中心に合理的に考え判断し勝ちであった当時のコリントの信徒たちに、神による救いや祝福を人々の心に呼び下す主キリストの生き方を、自分の実践を通して示すための言葉であったと思われます。最後にパウロが、「それは、私が福音と共にあずかる者となるためです」と述べていることは、人間中心の理知的効率主義的な生き方から脱皮して、神の御旨への従順や奉仕の愛を中心としたキリストの精神を体得しなければ、どれ程福音を学んでもその祝福には参与できないことを、教えている言葉でもあると思います。

使徒パウロのこれらの言葉は、豊かさ・便利さの中で何事もとかく今の自分のためを中心に考え勝ちな現代人にとっても、大切だと思います。名古屋の神言神学院での私の古い経験を振り返ってみますと、戦争中の小学校・中学校で個人主義を排斥して国のため社会のために奉仕する精神を称揚する、いわば我なしの軍国主義教育を受けた私は、戦後間もなくカトリックに改宗して修道司祭への道を歩み始めると、自分が以前に受けた心の教育が主キリストと共に歩むことの基盤となり、一層実り豊かな生き方に完成されて行くように覚え、修道院生活に大きな喜びを感じていました。ところが、各人の自由や個性を何よりも大切にするような戦後教育を受けた人たちが次々と神言神学院に入ってくると、私は自分の判断や見解を引っ込めなければならないことが多くなり、大勢の神学生たちの中で無口になり、少し淋しく感ずることが多くなりました。

神言神学院にいたドイツ人の司祭たちは、「我なしの主キリストの精神」を説きながらも、若い人たちの新しい精神にはつとめて温かい理解を示していたようですが、しかし、私が黙々と堅持していた古い心の立場から年月かけて観察していますと、優れた能力に恵まれているのに、自分が神から受けた召命の道に留まれずに、神学院を去る神学生たちがあまりにも多いように思われました。神に公然と清貧・貞潔・従順の修道誓願を宣立していても、誓願式はその人たちには一種の通過儀礼に過ぎないようで、日頃の個人生活においては外的規則に背かないよう心がけつつも、清貧や従順の修道精神を日々実践的に鍛えようとはしていないように見受けられました。ある意味では、カトリック教会や修道会を利用して自分独自の幸せな司祭生活を築こうと自力で模索しているのではなかろうか、と思われたこともありました。後になってみますと、そのような一部の神学生たちは司祭に叙階されても、やがて遅かれ早かれ神からの試練を受けると次々と世間に戻ってしまいました。私はそういう神学生たちの生き方や挫折に学び、司祭に叙階される前の終世誓願を宣立する時、優れたドイツ人聴罪司祭フラッテン神父の了解を得て、神に自分の人生を徹底的に献げる個人誓願を立て、その誓願文を今でも毎朝唱えています。そして神の御旨中心に生きようと努めるこの個人誓願のお蔭で、これまでの半世紀、本当にたくさんのお恵みを神から頂戴しているように実感しています。使徒聖パウロも、同様に神の豊かな恵みを実感しつつ生活していたのではないでしょうか。「パウロ年」に当たって、その生き方に新たに学ぶよう心がけましょう。