2012年2月19日日曜日

説教集B年:2009年間第7主日(三ケ日)


朗読聖書: . イザヤ 43: 18~19, 21~22, 24b~25.
. コリント後 1: 18~22. . マルコ福音 2: 1~12.
本日の第一朗読である第二イザヤ書は、旧約聖書の中でも最も福音的な喜びと慰めのメッセージが多く読まれる預言書ですが、その第二イザヤ書の本日の朗読箇所、並びに本日の第二朗読であるコリント後書の朗読箇所、そして本日の福音については、3年前にかなり詳しく話し、その時の説教は私の説教集B年に収録されていますので、重複しないため、本日はその時話さなかったことについてだけ補足的に話すことに致したいと思います。
第一朗読には、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思い出すな。見よ、新しいことを私は行う」という、神の御言葉が読まれます。私たち人間の理性は自分の経験に基づいて合理的に考えるよう造られており、その理性にだけ頼って自分の損得や人間関係などを考える生活を続けていますと、いつの間にかその理性が作り上げた固定化した原則や基準だけを中心にして何事も判断するようになり、物事の外的現象や様相だけを見て楽観したり悲観したり、喜んだり落胆したりし勝ちになります。それらは皆ごく自然な人間的反応ですから、そのこと自体は悪くないのですが、しかし、第二イザヤたちが体験していたバビロン捕囚という、現代の難民のような生活状態を余儀なくされたり、今日の世界的不況のしわ寄せを受けて失業したりしますと、人間理性中心のそんな生き方だけに留まっていては、ストレスが蓄積して健康を害する人が続出すると思います。前述した神の御言葉は、何よりもそういう不安な状況で生活して人たちへの、神からの呼びかけであると思います。経済不況を抱えて悩む現代人にとっても、関係深い呼びかけであると思います。
先日のテレビで、従来医学的に原因不明とされて来た「非特定要因による腰痛」が、心の奥に隠れているストレスの蓄積によって生じていることが、最近の医学で明らかになったと、実例を挙げて説明されていました。腰痛に悩むまじめで几帳面で頑張り屋の人が、ペットを飼育したり、何かの趣味に没頭したりしたら、次第に隠れていたそのストレスが解消したようで、数週間後にその腰痛が消えたというような例であります。何事にも理想が高くて、目標が達成できないと落胆したり悲観的になったりし勝ちな性格の人が、自分の心のその悲観的受け止め方を意図的に変えてみたら、腰痛がなくなった、という例もありました。これまでの固定化している自分の受け止め方や生き方を変えること、そこに種々の困難に直面している現代人の仕合わせへの道があるのではないでしょうか。
前述した神の御言葉は私たちに、これまでの自分中心・この世の生活中心の心の受け止め方や生き方を変えて、神の御旨中心の受け止め方や生き方へと転換するよう、呼びかけている御言葉と考えることもできます。神はその少し後で、「私はこの民を私のために造った。彼らは私の栄誉を語らねばならない。しかしヤコブよ、あなたは私を呼び求めず」「あなたの罪のために私を苦しめ、あなたの悪のために私に重荷を負わせた」などと話しておられるからです。神は最後に、「あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」と、民との和解を提起しておられるのですから、そのお言葉に信頼して自分の希望や計画などは捨て、ひたすら神の御旨、神の御言葉に従って生きようと努めてみましょう。その時、「見よ、私は新しいことを行う」という、前述した神の御言葉が、私たちの内に現実になるのを見ることでしょう。
ここで「新しいこと」とあるのは、この第一朗読のすぐ前に、「海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方、主は言われる」とありますから、エジプト脱出の時の神のお働きに匹敵するような、神による全く新しい救いの御業を意味している、と受け止めてもよいでしょう。神は様々の不安や危険に悩まされている現代の私たちにも、同様に呼び掛けておられるのではないでしょうか。神からの呼びかけに徹底的に聴き従う決意を新たにし、それを実践的に表明するよう努めてみましょう。その時、神による救いが実際に私たちの間でも働き出し、実現して行くのを体験することでしょう。
本日の短い第二朗読の中で使徒パウロは、「然り」という言葉を4回も書いています。そこに1回だけ述べられている「アーメン」という言葉は、「確かに」「本当に」「そうあって欲しい」などという同意を表すヘブライ語ですが、ここでは「然り」と同じ意味で使われていると思います。神の御子キリストは、父なる神よりのお言葉にはいつも「然り」と答えて、そのお言葉に積極的に従おうとしておられたので、神の約束はことごとく主キリストにおいて実現し、私たちも主を通してもたらされた救いの恵みに浴しているのではないでしょうか。私たちも神の御言葉に従って生きる決意を新たにし、感謝の心で主キリストの「然り」一辺倒の精神で生きるならば、使徒パウロのように絶えざる困難危険の中に置かれても、日々神による導きと救いを生き生きと体験し、心の奥にストレスを溜めることなく、逞しく生活することができるでしょう。
先週月曜日の朝、私は天竜浜名湖線の尾奈の駅で5分間ほど列車の来るのを待つ間に、ドン・ボスコ社の『カトリック生活』3月号を鞄から取り出して読み始めましたら、中国の地下教会についての記事にすっかり心を奪われ、列車が到着し、出発してしまったのに気づかず、ふと時計を見た時は列車はもう遠くに離れていました。それで次に列車が来るまで、時々冷たい北風の吹きこむその無人駅で1時間、その3月号を読みながら待たされました。このような失敗はこれまでにも数回体験していますが、私はその度毎にすぐその失敗を喜んで神に捧げ、それによって今苦しんでいる人や、神の導き・助けを必要としている人々に恵みが与えられるよう祈ることにしていますので、その失敗が心の奥に隠れたストレスとなって蓄積されることはないようです。
察するに、使徒パウロも主イエスも、自分の身に到来する幸運も不運も、いつもその背後に天の御父の愛の御摂理を仰ぎ見て、その喜びや苦しみを喜んで神にお献げしておられたのではないでしょうか。私は、このような生き方が神に対する「然り」の生き方だと思い、その御模範に見習うよう心掛けています。それが、心に隠れたストレスを蓄積することのない、霊的貧者の健康な生き方だと思います。使徒パウロは、不慮の苦しみによって自分がさいなまれ悩めば悩む程、神の福音は諸地方でますます広まり、多くの人に恵みをもたらすことを体験していたようですが、聖ヨハネ・ボスコも、何かの新しい企画や運動が外部からの大きな反対によって妨げられたり、手痛い失策などを経験したりすると、その妨げや失敗を神の御業に反対する悪魔よりのものと見なし、その企画を達成し実現するのが神の御旨である徴しと考えることが多かったようです。私も小さいながら、時々似たような体験をしています。前述した尾奈駅での失敗の3日後にも、京都の同志社大学の知人教授から葉書が届き、同志社処蔵のキリシタン踏絵2点を鑑定して欲しいと依頼されましたので、先方の都合を伺った上で京都に行くのが、今の私に対する神の御旨である、と考えるに至りました。思うに、その教授は、私があの失敗の小さな苦しみを神に喜んで捧げた後に、その葉書を書いたのだと思います。
本日の福音には、四人の男が主イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴を開け、中風の人の床をつり下ろした出来事が語られています。邦訳では「中風の人」となっていますが、原文のギリシャ語では「不随の人」という幅広い意味の言葉だそうですので、中風とは違う別の病気で歩けなくなっている身障者かも知れません。しかし、他人の家の屋根をはがして穴を開けてまで、その病人を強引に家の中で話をしておられた主の御前につり下ろすのは、人間社会の倫理上では、言語道断の無礼な行為だと思います。しかし、この世の人間社会の合理的倫理よりも、各人の心の神信仰を重視しておられた主は、その人たちの一途な信仰を喜ばれたようで、その病人に「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃって、その場にいた数人の律法学者たちを混迷させました。しかし、主は「なぜそんな考えを抱くのか。云々」と彼らを批判した後に、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃって、その人を癒されました。いつも人間理性を中心にして考え行動することを退け、万事を神からの呼びかけとして受け止めておられた主の、御言葉でもあると思います。私たちも、私たちの平凡な日常茶飯事にいつも伴っておられ、時として思わぬ行為をお求めになる神のお導きに直ちに従うよう、常日頃心がけていましょう。それが、「パウロ年」に当たって、教会が私たちに勧めている生き方でもあると思います。今週から始まる四旬節には、何事にも、まず神からの呼びかけに心の眼を向ける生き方を、身につけるよう心がけましょう。