2012年2月26日日曜日

説教集B年:2009年四旬節第1主日(三ケ日)


朗読聖書: . 創世記 9: 8~15. . ペトロ後 3: 18~22.
. マルコ福音 1: 12~15.
本日のミサの三つの朗読についても、3年前にかなり詳しい説教をなし、その話は私の説教集B年に収録されていますので、重複しないため、ここではその時話さなかったことを、話すに留めたいと思います。
第一朗読に述べられているノアとその息子たちは、大洪水が終わって地の面がすっかり乾いてから、「皆一緒に箱船から出なさい」という神のお言葉に従って地上に立ち、全ての動物たちをも箱船から出した後にまず為したことは、主のために祭壇を築き、焼き尽くすいけにえを捧げて神を礼拝することでした。すると神は、ノアとその息子たちを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。云々」とかなり長い祝福の言葉を話されました。その中に「動いている命あるものは、全てあなたたちの食糧とするが良い。私はこれら全てのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」というお言葉もありますから、祝福の始めに言われた「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神のお言葉は、人間たちだけではなく、動物たちに対しても神から与えられた祝福と命令であると思います。神が最後にもう一度、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」とおっしゃった後に、すぐ続いてあるのが、本日の第一朗読に読まれる契約についてのお言葉であります。
神はノアとその息子たちに、まず「私は、あなたたちと後に続く子孫とに契約を立てる」と人間に対する契約について話されましたが、すぐ続いて、「あなたたちと共にいる全ての生き物」「箱船から出た全てのもののみならず、地の全ての獣と契約を立てる」とおっしゃって、二度と洪水によって地の全てのものを滅ぼすことは決してない、と約束しておられます。聖書に読まれるこれらの御言葉から考えますと、神は人間だけではなく、全ての被造物をも深く愛し祝福しておられると思われます。ローマ書8章には、「被造物は神の子らが現れるのを、切なる思いで待ち焦がれているのです。被造物は虚しさに服従させられていますが、」「やがて腐敗への隷属から自由にされて、神の子らの栄光の自由にあずかるのです」などという言葉が読まれますが、私は聖書に読まれるこれらの言葉から、今は私たち人間と同様に罪に穢れたこの苦しみの世にあって、共に苦しんでいるこの世の全ての被造物は、世の終わりに主キリストが栄光の内に再臨し全ての人が復活する時に、神によって神の子のその栄光に参与するのではないか、と考えています。
したがって、今私たちがこの目で見ているこの物質的宇宙世界は、世の終わりの時に崩壊して無に帰してしまうのではなく、その崩壊という一種の死を介して、もはや死ぬことのない全く新しい輝く宇宙世界に生まれ変わり、そこにこの地上で生を享け、主キリストの命に参与して永遠に死ぬことのない体に復活する全ての人間が、神の子らとして永遠に仕合わせに生活し、活躍するのではないでしょうか。ノアとその息子たちに神が神からの一方的約束である契約の話をなさった時、神はこの罪の世が終わった後のその新しい本来の世界を、念頭に置いておられたのかも知れません。マタイ19章では主キリストも弟子たちに、「新しい世界が生まれ人の子が栄光の座に就く時、私に付いて来たあなたたちも12の座に就き、云々」と話しておられます。神からのこの契約、この約束の徴である、天と地を結ぶ虹を仰ぎ見る時、私たちも主の再臨によって復活する世界に対する、信仰と希望を新たに致しましょう。神がアブラハムとその子孫に対して結ばれた契約、すなわち特定の民族に対して結ばれた契約の徴は割礼でしたが、神はここでは「私とあなたたち、並びに全ての生き物との間に立てた契約」の徴として「雲の中に私の虹を置く」、「雲の中に虹が現れると、私はその契約を心に留める」と話しておられるのです。私たちも虹を見る時、神のこのお言葉を思い出し、神に感謝をささげましょう。
本日の第二朗読では使徒ペトロが、受難死を遂げ霊において生きる者とされた主キリストが、ノアの時の大洪水によって滅ぼされ、死後囚われの身とされている霊魂たちの所に行って宣教なさった、と述べています。私たちが日曜・祝日毎に唱えている使徒信条にもキリストについて、「陰府に降り」という言葉がありますが、使徒たちは主が陰府にお降りになった目的を、宣教のためと考えていたのかも知れません。としますと、ノアとその家族の8人だけは水の中を通って救われましたが、この水で前もって表されている水の洗礼をこの世で外的に受けなかった非常に多くの霊魂たちも、一切の時間的制約を超えて霊的にキリストの宣教と功徳の恵みに浴して救われるのだ、と使徒たちは考えていたのかも知れません。主もルカ13章に、非常に多くの「人々が東から西から、北から南から来て、神の国で宴会につくであろう」と話しておられます。私たちも水の洗礼という外的形に囚われずに、主キリストご自身による霊的な宣教と霊的な洗礼というものもあることを信じつつ、大きく開いた心で、全ての異教徒や全ての人たちの救いのため、希望をもってミサ聖祭や祈りを捧げるよう心がけましょう。「洗礼は、神に正しい良心を願い求めることです」という使徒ペトロの言葉も、注目に値します。ペトロはこの言葉を書いた時、霊的な洗礼を受ける人たちのことも考えていたと思われます。
本日の短い福音の前半には、主が40日間荒れ野に留まり、「サタンから誘惑を受けられた」と述べられています。しかし同時に、「その間野獣と一緒におられ、天使たちが仕えていた」とも述べられています。いずれ神の国で仲良く幸せに暮らすことになる野獣たちを恐れず敵視せずに、明るく開いた心で天使たちの働きに支えられ助けられて生きるのが、この世で受ける試練に耐え抜く道なのではないでしょうか。自分の力だけで悪霊の攻撃に抵抗するのではなく、大きく開いた心であの世の天使たちの援助を呼び込みつつ、内的に全被造物と共に生きるよう心がけましょう。
福音の後半には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主の御言葉が読まれます。主の宣教の根本を端的に言い表している御言葉だと思います。神の国の命と力、救いと喜びは、主と共に既に人々の目前に来ているのです。ここで言われている「悔い改め」は、自分の考えや力で自分の生き方を変えること、改革することではありません。もっと深い、もっと根本的な心の変革を意味しています。すなわち理知的な自分の考えや自分の聖書解釈によってではなく、霊的な神の導き、神の働きに心を開き、神の御旨中心に神の力に頼って生きようとすること、これまでの人間中心・自分中心の生き方に死んで、神中心の神の子としての生き方を始めることを意味しています。その御模範を、神の御子キリストは生きて見せておられるのです。その福音を頭だけで受け止め解釈しようとすることなく、何よりも意志的な心で受け止め、日々の実践を介して体得するように努めましょう。それが、主の求めておられる「悔い改め」だと思います。四旬節にあたり、その悔い改めの決心を新たにして、主にお献げ致しましょう。